ドイツの宗教改革
ドイツの宗教改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ドイツの宗教改革」の解説
1517年アウグスティノ修道会士であったマルティン・ルターが当時、サン・ピエトロ大聖堂改修資金として販売されていた贖宥状を批判した「95か条の論題」を提示したうえ、行為義認でなく信仰によってのみ義とされると唱える信仰義認や万人祭司を主張してカトリックの教階制(聖職位階制)を否定し、教会は全信徒によって構成されるものとする宗教改革が始まった。 「95か条の論題」は活字印刷されて反響を呼び、1518年8月にルターは2か月以内にローマに出頭せよという命令を受けるも拒否し、同年10月の教皇使節カエタヌス枢機卿の審問では自説の撤回を頑強に拒んだうえ、翌年のライプツィヒ討論ではさらに公会議の無謬性を否定し、ローマ教会との断絶を宣告するに至った。1521年、教皇にルターは破門され、彼とその支持者たち(ルター派)はカトリックから分離したが、ザクセン選帝侯のフリードリヒ3世(賢公)はルターを保護した。発表当初は贖宥状をめぐる僧職同士の内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々とこの論争に関与するようになった。
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