駿府城代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 19:20 UTC 版)
『寛政重修諸家譜』の記述によれば、寛永10年(1633年)2月9日に駿府城番に任命され、与力10騎・同心50人を預けられた。この際にさらに3000石を加増されて8000石となり、知行地も駿河国有渡郡・安倍郡に移された。ほかに2000石が与力・同心の給地とされた。 ただしこの間の経緯については、寛永9年(1632年)に徳川忠長が駿府城から退去したあとに駿府城番に任じられ、翌寛永10年(1633年)には駿府城代に任命されて加増と与力・同心の附属が行われたとする記述もある。駿府城代は、徳川忠長の入封以前に一時置かれているが、寛永10年(1633年)の再置後最初の駿府城代が勝政となる。以後、駿府城代には与力10騎・同心50人、役料2000石を支給する制度となっている。 駿府城代は、駿府城の警衛、管内の巡察のほか、久能山東照宮への拝礼なども任務であった。寛永年間、勝政は徳川家光の命を受け、久能山東照宮に五重塔を建設した(五重塔は東照宮の象徴的な建物であったというが、1873年(明治6年)に神仏分離・廃仏毀釈の中で仏教的要素が強いとして解体された)。また、今川氏親の菩提寺であった慈悲尾の増善寺の寺領を認める朱印状が幕府から発給されるよう寺社奉行らと折衝したといい、増善寺では勝政を「恩人」と位置付けて顕彰している。 寛永12年(1635年)6月10日、駿府において63歳で死去。増善寺に葬られた。家督は子・勝義が継いだ。
※この「駿府城代」の解説は、「松平勝政」の解説の一部です。
「駿府城代」を含む「松平勝政」の記事については、「松平勝政」の概要を参照ください。
駿府城代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:17 UTC 版)
「松平忠明 (信濃守)」の記事における「駿府城代」の解説
享和2年(1802年)、駿府城代となる。駿府城代としての在任中には、安倍川の治水につとめて享和3年(1803年)の洪水の被害を抑え、文化元年(1804年)には火災で焼失していた駿府の浅間神社(現在の静岡浅間神社)の再建を起工した。 文化2年(1805年)春、駿府において死去。公式には41歳であるが、「中川氏御年譜」「故信濃守源公伝」によれば47歳。没日については、「中川氏御年譜」が2月14日、「故信濃守源公伝」は2月没と記している。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』によれば3月8日没。このほか3月4日、5月19日と諸説があるという。 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』はこの死を自害とする。「中川氏御年譜」は単に逝去と記す。「故信濃守源公伝」は2月に病死とし、病に伏しながらも公務に努めていたが急死したと記す。最上徳内と交流があった会田安明は「最上徳内常矩が事」において、駿府城代に移った松平信濃守が「病死」したという情報を記している。 浅間神社北西の松樹院北側に葬られ、墓石には「故駿府城代信濃守松平君之墓」と刻まれている。現地静岡では「自分が死んだら浅間神社再建の木遣唄が聞こえる場所に埋葬して欲しいと遺言していた」と伝えられている。「故信濃守源公伝」では、駿府城の鎮護となるべく城を眺められる場所に埋葬することを遺言したとある。
※この「駿府城代」の解説は、「松平忠明 (信濃守)」の解説の一部です。
「駿府城代」を含む「松平忠明 (信濃守)」の記事については、「松平忠明 (信濃守)」の概要を参照ください。
駿府城代と同じ種類の言葉
- 駿府城代のページへのリンク