項梁とは? わかりやすく解説

項梁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 07:52 UTC 版)

項 梁(こう りょう、拼音:Xiàng Liáng、? - 紀元前208年)は、中国代末期の武将・反乱指導者。陳勝・呉広の乱を引き継ぎ、秦に対する反乱を指揮したが、秦の章邯将軍に敗死した。項羽の叔父、大将軍項燕の末子、項伯の兄弟[1]。自ら武信君と称した。項羽を養育したことでも知られる[2][3]

項梁

生涯

下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。項梁自身は櫟陽に住んでおり、ある罪に連座して秦に捕らえられたが、蘄県の獄掾をしていた曹咎に頼んで、櫟陽の獄掾でである司馬欣に手紙を送ってもらい、事なきを得た。のちに人を殺害して仇持ちとなったため、復讐を逃れて甥の項羽と共に江南地方のに逃れた。項梁はこの地の人々の信望を集めて、秦の賦役に対する人夫の割り当てや葬式を取り仕切るなど、顔役となった。またそれと同時に、後日を期してひそかに人材の見極めも行っていた。

二世元年(紀元前209年)9月、始皇帝が死に、陳勝らが挙兵して秦の支配体制が動揺すると、会稽郡守殷通は項梁を呼び出した。殷通は、「先んずれば人を制すと言う。私も秦に対して反乱を起こすことに決めた」と言って、桓楚という有力者を探し出し、共に自分の旗下の将軍になる事を項梁に要請した。項梁は殷通に「桓楚の居場所は甥の項羽しか知らない」と言って項羽を郡庁舎に来させた。殷通の前に出た項羽は殷通を斬殺し、項梁は郡守の印を奪って自ら会稽郡守となった。なお、桓楚はこの挙兵後に項梁の配下に加わっている。

項梁は、前から知っていた主な役人を召して、大事を起こすことを伝えて、呉の地から兵を挙げて、8,000人の精鋭を得た。その上で、呉にいた豪傑を校尉・候・司馬に任じる。役に任じられない者が不満に思い申し出たが、「あなたは葬儀の時に与えた役割を果たせなかったため」と説明すると、皆、項梁に屈服した。項梁は会稽郡守を名乗り、項羽を裨將(副将)に任命し、諸県を従えた。

二世二年(紀元前208年)12月、陳勝が秦の章邯に敗北し、逃げる途中で部下の荘賈に殺害される。

同年端月[4]、広陵にいた召平[5] は呉に来て、陳勝の使いだと偽り、項梁を楚の上柱国に任命し、出兵を促した。項梁はこれを受け、8000の精兵を率いて出発した。

同年2月、途中の東陽県で陳嬰を加え、英布・蒲将軍などの軍を合わせて大軍となった項梁は、楚王を名乗っていた 景駒(楚の公族)とその腹心秦嘉と甯君を、彭城の東に攻めて敗走させる。

同年4月、追撃して胡陵で秦嘉を討ち取り、軍隊を降伏させた。景駒も梁(魏)の地で死んだ。この時、兵力は十数万人にもなった[6]

項梁は胡陵に陣取り、栗県に進軍してきた秦軍を率いる章邯に対し、朱鶏石と余樊君を向けて戦ったが、余樊君は戦死し、朱鶏石は胡陵に敗走した。薛に進み、沛で挙兵していた劉邦も項梁に会いに来た。そこで、五大夫将を10人と兵士5,000人を増やして与える。劉邦は引き返し、豊を攻めた[7]。襄城に向けた項羽は、落城させて戻ってきた。項梁は陳勝が殺されたことを知り、各地の武将と薛において会合し、今後を相談した。劉邦も薛に集まってきた。

同年6月、反秦軍の領袖となった項梁は、居巣からやってきた范増の献言を入れて、楚の民の望むところに従い、旧楚の懐王の孫(玄孫とも)で羊飼いに身を落としていた心という人物を連れて来ると、祖父と同じ名前の懐王(後の義帝)として楚の王に擁立し、陳嬰を楚の上柱国に任じ、盱台を首都とした。項梁は武信君と名乗った。亢父に秦軍を攻める。

同年7月、斉国の田栄に、司馬の龍且を援軍に送り[8]、東阿を攻めていた秦軍を大いに打ち破った。しかし、田栄は斉王の田假を追い出し、田巿を王とし、田假は楚に亡命する。項梁は、秦軍を追撃し、斉軍とともに西に向かうことを願うが、田栄は「田假を殺すことが出兵の条件である」と答える。項梁が田假を殺すことを拒否したため、斉は援軍を送ることに同意しなかった。項梁は、兵を分けて、項羽と劉邦に城陽を攻めさせ、落城させる。二人は西進して、濮陽の東で秦軍を破る。秦軍が濮陽に兵をいれたため、二人は定陶を攻める。

同年8月、二人は定陶を落城させないままにして、西進して雍丘で秦を大いに破り、三川郡守の李由(秦の丞相李斯の長男)を討ち取る。二人は引き返して、外黄を攻めた。

項梁は外黄が落ちないうちに、東阿から定陶に向かい、秦軍を破る。項梁は秦を軽くみて、慢心するようになった。宋義に慢心を諌められたが、聞き入れなかった。宋義は項梁の軍から斉への使者として離れる途中で、斉の使者としてやって来た旧友の高陵君顕に出会い、彼が項梁の所に行く途中だと聞くと、項梁は必ず敗れるから行かないほうが安全だと忠告していた。

同年9月、秦は全兵力で章邯を増援しており、項梁は定陶において、枚(ばい)をくわえて夜襲をかけてきた[7] 章邯率いる秦軍に攻められて敗死した。

項羽と劉邦は、陳留を攻めていたが、項梁の戦死を聞き、兵士が恐れていると判断し、戦いの続行を断念して、呂臣の軍とともに、東に引き返した。章邯は、名将の項梁を討ち取り、楚国は恐れるにもはや足りないと判断し、趙国を攻めた。

脚注

  1. ^ 史記』には末の叔父とあるが、項伯もまた末の叔父とある。
  2. ^ 注釈がないものは『史記』項羽本紀による。
  3. ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦で表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。
  4. ^ 西暦で表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。以下、同じ。また、秦代では正月を端月とする。
  5. ^ 陳勝に呼応して広陵を手に入れようとしたが、まだ、落とせていなかった。
  6. ^ 『史記』秦楚之際月表第四
  7. ^ a b 『史記』高祖本紀
  8. ^ 『史記』秦楚之際月表第四では、項羽と劉邦を救援に向かわせたとする。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:48 UTC 版)

項羽と劉邦 (小説)」の記事における「項梁」の解説

項羽叔父幼くして両親亡くした項羽引き取り親代わりとなって項羽育てた楚の滅亡後、項羽引き連れて諸国流浪した後に会稽郡呉中に腰を落ち着け名族生まれ相応し典雅な容儀教養から地元民信頼得て一種顔役になった。しかし陳勝・呉広反乱の報に接しかねてより抱いていた秦への復讐再興を成すべく群守を殺して会稽郡の長となる。その後陳勝死んでばらばらになっていた流民軍を自身のもとに取り込んで上手く組織し、全反乱軍最大勢力育てあげ、やがて旧王孫懐王即位させて再興成し遂げるその後官位爵位の外に立って強い発言権を持つ「君」の地位に就いて武信君」と名乗り宗義など旧貴族干渉から超然として引き続き楚軍全権握り続けた

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 08:21 UTC 版)

項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事における「項梁」の解説

項羽叔父会稽顔役で、太守殷通殺して旗揚げする。韓信(『史記』では宋義)の忠告聞かず章邯侮ったのが禍して、定陶章邯敗死する。

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「項梁」を含む「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事については、「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

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