関所の設置
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五料関所は、五料宿の東端の利根川に臨む位置に設けられた。明和元年(1764年)以来の「道中奉行管轄の街道として、重視された渡船場」という。五料関所の設置時期には諸説あり、元禄10年(1697年)9月という説の他、元和2年(1616年)の「定船場法度」に定船場とあること、寛永13年(1636年)に幕府から五料に宛てられた「上野国五料の定」から、寛永13年以前には設置されたものと考えられている。 また、寛永8年(1631年)「幕閣の重臣連署のもとに、東国の各関所規定を出し、女・手負い・欠落者など怪しい者の取締りと、それを捕まえた者への褒賞が達せられた」。この規定書では、「箱根(東海道)・関宿(日光東往還)・小仏(甲州道中)などともに、小岩・市川(佐倉街道)、新郷・川俣(日光裏街道)、柴・五料(日光例幣使街道)、金町・松戸(水戸街道)、房川渡し中田(日光道中)」などの定船場が記されていた。
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関所の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 13:47 UTC 版)
戦国時代 栃本関所の設置は、『新編武蔵風土記稿』によると戦国時代、武田信玄の秩父浸入の際設けられたとされ、番士を家臣山中右馬允とし、武州からの侵攻に備えたといわれている。 江戸時代 慶長19年(1614年)山中馬之丞は追放され、関東代官伊奈忠治・忠治が大村氏を関所の番士とし、関所廃止まで大村家が関所番士となっていた。寛永8年(1631年)には、警備強化のため、武州麻生村、甲州河本村に加番所が指定された江戸より西方、秩父郡三峯神社近くに置かれ、甲斐との往来を取り締まった。 別称について 栃本関所の別称には、菅平宿に接していたことから、菅平関があったとする意見があるが、栃本と菅平は集落が異なり、むしろ両者は別々のもので、最初に菅平関があって、後に栃本へ移転したものとする意見もある。
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関所の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:19 UTC 版)
関所の機能には軍事的目的(防衛)、警察的目的(治安)、経済的目的(交通料徴収)がある。 陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。
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