開戦までの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 15:52 UTC 版)
1471年のテュークスベリーの戦いの大敗北を受けてフランスに身を隠していたヘンリーは、同年8月7日、イングランド王になるために少数の兵(その多くはフランスの傭兵)とともに故郷のペンブルクシャーに上陸した。リチャード3世はそれまでにもランカスター派の軍と戦ってきたが、この戦いが最後の戦いになる。対するヘンリーは軍事経験にこそ乏しかったが、味方として、共に経験豊かで才知にも長けた、叔父であるペンブルク伯ジャスパー・テューダー(後のベッドフォード公爵)とオックスフォード伯を伴っていた。 ヘンリーは父の地元のウェールズを駆け巡って支持者を集め、中部地方に到着した時には推定5,000人の兵を集めていた。それに対してリチャード3世は、約8,000人を動員できた。 戦いの勝敗を決したのは、ウィリアム・スタンリー卿(Sir William Stanley)とトマス・スタンリー男爵のスタンリー兄弟の動向であった。トマス・スタンリーはヘンリーの継父にあたるので、リチャード3世にしてみれば信用しすぎるのは危険ではあったが、リチャードはその配慮に欠き、兄弟の継続的な忠誠心に依存しきっていたといえる。 戦場は、レスターシャーのサットン・チェイニー(Sutton Cheney)とマーケット・ボズワース(Market Bosworth)の近くであった。詳細な場所については、しばしば「戦場はダドリントン(Dadlington)とストーク・ゴールディング(Stoke Golding)に近いところだった」とする説得力のある説が出されるなど、歴史学者の間で議論の的になっている。 ただ、リチャード3世が開戦前夜に野営した場所がアンビオン・ヒル(Ambion Hill)だった、という点に関しては、大方の意見が一致している。 もう1つの説は、実際の戦場がそこから10kmほど西の、ウォリックシャーのアザーストーン(Atherstone)の北にあるメアベール(Merevale)であるというものである。確かに、戦闘の後に国王側からアザーストーンの街に対して賠償金が支払われている。 戦闘はリチャード3世の本隊とヘンリーのフランス傭兵隊との交戦から始まった。ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとスタンリー兄弟の軍は、両陣営の主力軍から少し離れた所に陣取っていた。彼らは戦闘の決着が見えるまでどちらにも就かないという、詐欺的ともいえる慎重さを示した。リチャード3世としては、スタンリー兄弟が味方しないまでもせめて中立を保つように、人質を取っていた。
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