長崎市への原子爆弾投下
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座標: 北緯32度46分25.4秒 東経129度51分47.6秒 / 北緯32.773722度 東経129.863222度[注釈 1]
- 1 長崎市への原子爆弾投下とは
- 2 長崎市への原子爆弾投下の概要
長崎への原爆投下
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広島の3日後が次の原子爆弾投下の日に選ばれた。短期間の間に2回も原子爆弾を投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾を投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際は次に投下する予定のファットマンがアメリカ軍が製造していた最後の原子爆弾であった。初回の任務を成功させたティベッツは2回目は信頼できる部下に任せることとし、広島の際に観測機グレート・アーティストの機長であったチャールズ・スウィーニー中佐がB-29ボックスカー号に搭乗して原子爆弾投下任務を行うことになった。目標は小倉か新潟いづれかに絞られたが、新潟は距離が遠すぎるという理由で第1目標が小倉、そして第2目標を同じ九州の長崎と定めた。1945年8月9日テニアン島を出撃したボックスカーは、午前8時43分に小倉上空に達したが、天候不良で小倉は厚い雲に覆われており、やむなく第2目標の長崎に向かった。長崎も天候は不良であったが、レーダーで爆撃進路をとっているときに一瞬雲の切れ目が見えたので、午前10時58分にファットマンを投下し、ボックスカーは燃料不足のためマリアナには戻らずそのまま沖縄に向けて飛行した。 日本軍も広島への原子爆弾投下以降警戒は強化しており、国東半島から北九州地区に向かう2機のB-29を発見したが、西部軍管区は広島と同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機と判断し10時53分に空襲警報を発令した。第16方面軍司令部は、敵機の目標は長崎と判断しラジオを通じて「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送を繰り返し流させたが、事前の空襲警報やラジオ放送はほとんどの長崎市民には認知されておらず(ラジオ放送そのものがなかったという証言もあり)長崎市民が大規模な避難をすることはなかった。11時2分に現在の原爆落下中心地公園上空でファットマンがさく裂し、長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われた。(詳細は長崎市への原子爆弾投下参照) なお、日本軍も原爆の開発を試みたが基礎研究の域は出ていなかった(日本の原子爆弾開発)。
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