配給の神様
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1898年(明治31年)4月9日、千葉県に生まれる。父は元治郎。 早稲田大学理工学部(現在の早稲田大学理工学術院)を卒業し、東洋汽船に入社、文書課長を務める。1920年(大正9年)前後の同社は、子会社・東洋フィルム商会が『成金』を製作したり、大正活映を設立して映画を製作・配給したり、と映画事業に関係していた。やがて佐生は、1916年(大正4年)10月創立のユニヴァーサル映画東京支社(ユニヴァーサル播磨商会)に転職する。同支社は、同社極東支配人のトーマス・コクレン(英語: Tom D. Cochrane, 1869年 - 1937年)が播磨勝太郎と提携して始めた会社であったが、やがて、1922年(大正11年)には、コクレンがユニヴァーサル映画を退社して渡米、パラマウント映画に移籍、同社の極東支配人になり、同年7月には日本に戻り同年8月1日付で日本支社を開設しており、佐生もこれに移籍、支配人に就任する。1926年(大正15年)にニューヨーク市で発行された Film Daily Year Book 1926 には、東京市京橋区西紺屋町27番地(現在の東京都中央区銀座4丁目2番12号)の秀英舎ビル(現在の大日本印刷、跡地は銀座クリスタルビル)にあった東京事務所の支配人に佐生の名がすでに記されている。 佐生は、コクレンからアメリカ的計数主義を仕込まれ、合理的な営業手法を身に着けた。1931年(昭和6年)5月29日、松竹の大谷竹次郎社長、城戸四郎専務、蒲生重右衛門浅草松竹座支配人、パラマウント側からはコクレン、佐生、パラマウントの旗艦劇場であった邦楽座(現在の丸の内ピカデリー)の小笠原取締役が出席して、チェーン合併および松竹パ社興行社(S-PX)の設立の合意を成立させた。この時代のパラマウントは、東京市内外に邦楽座(観客定員数1,300名)のほか、浅草六区の東京館(のちの東京クラブ、観客定員数579名)、麻布・新堀町の芝園館(観客定員数575名)、神田・神保町の南明座、渋谷・百軒店の渋谷キネマ(のちのテアトル渋谷、観客定員数1,300名)の5館の直営館を抱えていた。 年間60作ものパラマウントの映画作品を日本市場に配給してきたが、1936年(昭和11年)9月、長らく在任し「配給の神様」の名を不動のものとしたパラマウント映画支配人を辞任、同年6月に設立された東宝映画配給に入社、取締役に就任する。この移籍は電撃的であり、同年10月に発行『キネマ週報』第279号にも「話題の人」として取り上げられている。翌1937年(昭和12年)9月10日、同社と写真化学研究所、ピー・シー・エル映画製作所、ゼーオー・スタヂオが合併されて東宝映画が設立されると、この新会社の取締役に就任する。佐生がパラマウントを去って1年後の同年11月9日、出張先のニューヨークでコクレンが亡くなっている。 森岩雄による映画製作、金指英一による経理、佐生による配給営業の手腕が、同社を数年のうちにメジャー企業に育て上げた、とされる。佐生が提唱したフリーブッキング制は、映画賃貸料は目分量で決められていたが、「その土地の人口、映画館数、入場料金等を勘案し、つぎに配給映画一本に対する製作費、間接費、本社経費、株主配当を含めたコストに、興行価値を加えた総収入単価を算出し、これを個々の映画館の立地条件に適合させて、適正妥当な貸付料金を算定する」という「クォータ・システム」の一種であり、この合理的な映画賃貸料によって、作品ごとにブッキングする方式である。同制度は、この新しい映画会社である東宝映画の当初に発揮された。 第二次世界大戦が開始され、ユニヴァーサル映画、パラマウント映画といったハリウッド映画の日本支社は1941年(昭和16年)12月に解散している。戦時統制のため、1942年(昭和17年)2月6日、すべての映画を一本化して配給する社団法人映画配給社が設立され、それにあたって、日本映画社(日映)の古野伊之助、松竹の阿部辰五郎、大映の河合龍斎とともに理事に就任する。
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