過剰生産の幻想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:27 UTC 版)
「中華人民共和国大飢饉」の記事における「過剰生産の幻想」の解説
1957年以降、中国共産党は上からの圧力により穀物の過剰生産を報告し始めた。 毛沢東は有頂天だった。全国から届く、綿花、米、小麦、落花生の収穫量が新記録を達成したという報告を聞いて、余った分をどうしたものかと考え始めた。1958年8月4日、徐水県を視察したさい、報道陣に囲まれた毛は、麦藁帽子をかぶり綿の靴を履き、張国忠(県幹部の軍人)を従えて農地をゆっくりと歩きながら顔を輝かせた。「これだけの穀物を食べきれるだろうか?余った分はどうするつもりかね?」「機械類と交換しようかと思っています」張は一瞬考えて答えた。 「いや、余っているのはきみのとこだけじゃないぞ。他だって有り余っているんだ!穀物を欲しがるところなんかどこにもないぞ!」毛は気の毒そうな微笑を浮かべて言い返した。 — しかし、中国全土における実際の穀物生産量は、1957年から1961年にかけて減少していた。例えば: 四川省では、1958年から1961年にかけて穀物の収穫量が減少しているにもかかわらず、中央政府への報告では増産され続けていることにされていた。 甘粛省では、1957年から1961年にかけて穀物収量が4,273,000トン減少した 。 この一連の出来事は「浮誇風(中国語版)」(水増し報告)をもたらし、党中央はそれをもとに彼らが穀物を過剰に持っていると信じきっていた。しかし、実際の収穫量は平均値にすら満たないものであった。たとえば、北京政府は「1960年には国の穀倉には500億斤の穀物がある」と信じていたが、実際に納められているのは127億斤に過ぎなかった。水増し報告の影響は甚大であり、一部の歴史家はそれが中国全土で発生した多くの飢餓の主な原因であったと主張している。楊大利(英語版)は、"過剰生産"の誤認識は3つの大きな結果を引き起こしたと主張した: 第一に、それは計画者に穀物から綿花、サトウキビ、ビートなどの経済作物へと土地をシフトさせ、大量の農業労働者を工業部門に転向させ、農村から収集する穀物に対する国家の需要を煽った。第二に、中国の指導者、特に周恩来は、工業化に必要な資本財を購入するための外貨をより多く確保するために、穀物輸出を加速させるようになった。最後に、過剰生産という幻想は、共同食堂の採用を当時合理的に思わせた。当然、これらの変更はすべて供給穀物の急速な枯渇につながった。
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