賀陽宮邦憲王とは? わかりやすく解説

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賀陽宮邦憲王


賀陽宮邦憲王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/25 14:42 UTC 版)

賀陽宮邦憲王(かやのみや くにのりおう、1867年7月2日慶応3年6月1日) - 1909年明治42年)12月8日)は、日本の皇族神宮祭主久邇宮朝彦親王の第2王子で明仁大伯父にあたる。賀陽宮初代当主。


  1. ^ 『官報』第2843号「宮廷録事」、明治25年12月17日(NDLJP:2946108/2
  2. ^ 明治33年宮内省達甲第2号(『官報』号外、明治33年5月9日)(NDLJP:2948346/10
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』2頁。
  4. ^ a b 『官報』号外(明治42年12月8日)(NDLJP:2951289
  5. ^ 明治42年宮内省告示第17号(『官報』号外、明治42年12月8日)(NDLJP:2951289
  6. ^ 『官報』第7940号「宮廷録事」、明治42年12月10日(NDLJP:2951291/5
  7. ^ 『官報』第3106号「叙任及辞令」明治26年11月4日(NDLJP:2946370/4
  8. ^ 『官報』第6103号「叙任及辞令」明治36年11月4日(NDLJP:2949412/2


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賀陽宮邦憲王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:29 UTC 版)

賀陽宮」の記事における「賀陽宮邦憲王」の解説

詳細は「賀陽宮邦憲王」を参照 初代邦憲王(くにのりおう)は、慶応3年1867年)に朝彦親王の第2王子として誕生幼名巖麿王という。兄が夭逝していたため久邇宮家家督を継ぐ予定だったが、病身により弟邦彦王譲った1892年明治25年)に侯爵醍醐忠順長女好子結婚し同年12月17日に「賀陽宮」の宮号称号)を受けた1900年明治33年1月男子恒憲王)が誕生したことから新宮家設立明治天皇請願し勅許得て同年5月宮家に列せられた。1895年明治28年)に伊勢神宮祭主就任1909年明治42年)、42歳薨去

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