賀陽宮邦憲王
賀陽宮邦憲王
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賀陽宮邦憲王(かやのみや くにのりおう、1867年7月2日(慶応3年6月1日) - 1909年(明治42年)12月8日)は、日本の皇族。神宮祭主。久邇宮朝彦親王の第2王子で明仁の大伯父にあたる。賀陽宮初代当主。
- ^ 『官報』第2843号「宮廷録事」、明治25年12月17日(NDLJP:2946108/2)
- ^ 明治33年宮内省達甲第2号(『官報』号外、明治33年5月9日)(NDLJP:2948346/10)
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』2頁。
- ^ a b 『官報』号外(明治42年12月8日)(NDLJP:2951289)
- ^ 明治42年宮内省告示第17号(『官報』号外、明治42年12月8日)(NDLJP:2951289)
- ^ 『官報』第7940号「宮廷録事」、明治42年12月10日(NDLJP:2951291/5)
- ^ 『官報』第3106号「叙任及辞令」明治26年11月4日(NDLJP:2946370/4)
- ^ 『官報』第6103号「叙任及辞令」明治36年11月4日(NDLJP:2949412/2)
- 1 賀陽宮邦憲王とは
- 2 賀陽宮邦憲王の概要
- 3 参考文献
賀陽宮邦憲王
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詳細は「賀陽宮邦憲王」を参照 初代邦憲王(くにのりおう)は、慶応3年(1867年)に朝彦親王の第2王子として誕生。幼名を巖麿王という。兄が夭逝していたため久邇宮家の家督を継ぐ予定だったが、病身により弟邦彦王に譲った。1892年(明治25年)に侯爵醍醐忠順の長女好子と結婚し、同年12月17日に「賀陽宮」の宮号(称号)を受けた。1900年(明治33年)1月に男子(恒憲王)が誕生したことから新宮家設立を明治天皇に請願し、勅許を得て同年5月に宮家に列せられた。1895年(明治28年)に伊勢神宮祭主に就任。1909年(明治42年)、42歳で薨去。
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