山階宮武彦王
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山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月10日)は、日本の旧皇族。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第一王子。海軍軍人で、最終階級は海軍少佐。皇族で初めて海軍航空隊に所属し、空の宮様と呼ばれた。
注釈
出典
- ^ 明治31年宮内省告示第4号(『官報』第4384号、明治31年2月16日)(NDLJP:2947673)
- ^ 中村 1909 p.246
- ^ 大正7年宮内省告示第4号(『官報』第1707号、大正7年4月13日)(NDLJP:2953820/2)
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、25頁。
- ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
- ^ 1920年12月1日読売新聞「山階宮武彦王殿下航空隊へ 皇族殿下の御入学は初めて」
- ^ 1921年2月22日読売新聞「賀陽宮家の佐紀子女王と山階宮武彦王が 御婚約の儀が進捗し 近日勅許を仰いで決定する」
- ^ 大正11年宮内省告示第25号(『官報』第2990号、大正11年7月20日)(NDLJP:2955108/2)
- ^ 1922年7月20日読売新聞「山階宮武彦王御婚儀 昨日宮中で行はせらるる」
- ^ 1925年6月16日朝日新聞「山階宮の御國航空所 設備成つて練習生募集」
- ^ 1925年9月22日朝日新聞(夕刊)「御國航空所入所式 けふ立川町で盛大に」
- ^ 1925年7月11日読売新聞「空の宮の御婚儀 梨本宮家の規子女王と十月中旬に 御結婚後は御留學か」
- ^ 1925年5月2日朝日新聞「御婚約の宮と御同伴で きのふ規子女王の立川御見學 空の宮様に劣らぬ御熱心ぶり」
- ^ 1926年7月25日読売新聞「山階宮武彦王殿下 御結婚を御辞退」
- ^ 1926年7月2日朝日新聞「御國航空練習所突如解散す 昨日最後の謝恩飛行をなし 五日解散式を挙行」
- ^ 1929年7月6日読売新聞「お痛はしい山階宮殿下 御回復覚束なく」
- ^ 1929年11月30日朝日新聞「山階宮殿下 御進級御待命」
- ^ 1946年1月17日読売新聞「十六宮殿下該當」
- ^ 1951年9月22日読売新聞「三元皇族の解除内定」
- ^ “山階武彦助成事業について”. 公益財団法人山階鳥類研究所. (2019年3月18日) 2019年5月14日閲覧。
- ^ 1987年8月10日朝日新聞(夕刊)「山階武彦氏死去」
- ^ 1987年8月11日読売新聞「故山階武彦氏の告別式」
- ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- 1 山階宮武彦王とは
- 2 山階宮武彦王の概要
- 3 栄典
- 4 関連項目
山階宮武彦王
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詳細は「山階宮武彦王」を参照 3代武彦王は、1898年(明治31年)に誕生。父宮の跡を次いで海軍に入り、海軍少佐に進む。海軍航空隊に入隊し東京上空を飛行したことから「空の宮様」として知られた。賀陽宮邦憲王の王女、佐紀子女王と結婚したが、1923年(大正12年)、関東大震災により鎌倉にあった宮家の別邸も倒壊。折悪しくこの別邸に滞在していた懐妊中の佐紀子妃は胎児とともに圧死した。佐紀子妃の薨去によって武彦王は精神に異常をきたし、1932年(昭和7年)、予備役に編入された。1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱、後は山階氏を名乗るが、その後も入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)8月に藤沢の病院で逝去した。上記の経緯から武彦には正式な実子は無く、山階宮家の直系は断絶した。
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