北白川宮永久王
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北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう、1910年(明治43年)2月19日 - 1940年(昭和15年)9月4日)は、日本の皇族。陸軍軍人、貴族院議員。北白川宮成久王の第1王子。北白川宮第4代当主。最終階級は陸軍砲兵少佐(薨後特進)、勲等は大勲位菊花大綬章。母は明治天皇の第7皇女房子内親王。妃は男爵徳川義恕の次女祥子。参謀たる陸軍砲兵大尉として蒙疆方面(モンゴル及び中国北部)へ出征していたが、演習中に航空事故に巻き込まれ殉職した。
注釈
出典
- ^ 長佐古美奈子『ボンボニエールと近代皇室文化』えにし書房、2015年11月。ISBN 978-4908073175。 p.112
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.10 ※原文は歴史的仮名遣い
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.10-11
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.65
- ^ a b 『官報』第3250号、大正12年6月1日(NDLJP:2955373/11)
- ^ 『官報』第3248号、大正12年5月30日(NDLJP:2955371/6)
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.12
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.119
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.17-18
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.46
- ^ a b c d e f g わが武寮 1982 p.571
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.39-40
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.47
- ^ 『北白川宮永久王殿下』1942 p.47-48
- ^ 大日本婦人会「北白川宮両妃殿下の御近況を拝す」『日本婦人』第1巻第7号、大日本婦人会、1943年5月、10-11頁。(NDLJP:1578587/1/7)
- ^ NDLJP:1139349/1
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、38頁。
- ^ 『官報』第1449号、「叙任及辞令」昭和6年10月27日。p.668
- ^ 『官報』第1449号、「叙任及辞令」昭和6年10月27日。p.670
- ^ 『官報』第849号「叙任及辞令」、昭和4年10月28日。p.672
- ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」、昭和6年12月28日。p.742
- ^ 『官報』第1449号「叙任及辞令」、昭和6年10月27日。p.665
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」、昭和16年10月23日(NDLJP:2960937/1/26)
- ^ 『官報』第4101号号外「叙任」、昭和15年9月5日
- ^ 『官報』第4105号「敍任及辭令」、昭和15年9月10日(NDLJP:2960603/1/7)
- 1 北白川宮永久王とは
- 2 北白川宮永久王の概要
- 3 血縁
- 4 作詞
北白川宮永久王
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4代永久王は、成久王の第1王子。1910年(明治43年)誕生。1923年、成久王薨去により、宮家を相続した。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、父宮の遺志を継いで砲兵畑を歩み陸軍砲兵少佐となる。1935年(昭和10年)、尾張徳川家の流れを汲む男爵 徳川義恕(よしくみ)の娘・祥子(さちこ)と結婚。1940年(昭和15年)、日華事変に出征、蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故のため薨去。31歳だった。 妃祥子は、東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)を卒業。永久王との間に道久王と肇子女王を儲ける。1969年(昭和44年)女官長に就任し、1989年の平成改元後は、皇太后宮女官長として皇太后良子(香淳皇后)に長く仕えた。
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