設計者をめぐる議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/11 07:29 UTC 版)
「ファン・ネレ工場」の記事における「設計者をめぐる議論」の解説
設計を請け負ったのはファン・デル・フルフト=ブリンクマン設計事務所である。しかし、そこにマルト・スタムがどこまで関与したのかについて、議論になってきた。スタムの関与についての最も早い言及は1929年のヒッチコックの著書であるが、本格的に論争が起こる画期となったのは、1960年のレイナー・バンハム(英語版)の著書(邦題『第一機械時代の理論とデザイン』)であったと考えられている。バンハムはその著書の中でバウハウスについて論じた際に、同じ時代で規模の点で匹敵、あるいは凌駕しうる建築物はわずかに2件とし、その1件としてファン・ネレ工場に言及していた。その言及では、それをマルト・スタムに帰し、註釈をつけてスタムの作品と見なせる根拠を挙げている。バンハムがスタム説を採る理由は、ブリンクマン=ファン・デル・フルフト社のデザイン・チームを主導していたのが彼であったこと、そして中心棟の設計を始め、様々な点にスタムの特色が見られることであった。なお、バンハムは明記していないが、彼の著書の資料提供者の一人がスタムであったことや、その断定の仕方から、バンハムはおそらくスタム自身からもこの件の裏づけを取ったのではないかとする見解もある。 1964年にスタムは、ファン・デル・フルフトに関する著書をまとめていた建築家ヤコブ・ベレント・ベケマの照会に応じて、この問題への回答を寄せている。そこでは、自分が設計に携わったことを認め、自分の意に反する形で実現した建造物群はあるものの、当時が1964年と同じような状況だったら、自分は共同設計者と名乗る資格があったはずという認識を示している。 実際、スタムが作成したドローイングでは工場棟の主要部分はスタムの設計が生かされており、その特色はスタム自身の他の設計の特色とも類似することが指摘されている。
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