言論人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:38 UTC 版)
「ヘルムート・シュミット」の記事における「言論人へ」の解説
首相を追われたことを受けてシュミットは1984年に党副党首を辞任し、1987年を最後に連邦議会からも去った。それまでSPD出身の連邦首相は彼を含めて3人いたが、党首を経験したことがないのはシュミットだけである。これはブラントという抗いがたい偉大な存在がいたことによる。 1983年、シュミットはドイツ随一の高級オピニオン紙である週刊新聞『ディー・ツァイト』の共同編集者に就任し、1985年にはその経営代表責任者となった。1983年には福田赳夫と共に協調行動評議会 (de:InterAction Councils) にも参加している。1986年12月にはEMCを支援しヨーロッパ中央銀行の創設を側面から援助するための委員会の創設にもかかわった。そのほか多数の財団や基金の顧問といった名誉職に名を連ねている。防衛、民主主義、グローバリゼーション、中国の台頭、自伝など様々な分野で多数の著書がある。 シュミットは1987年の連邦議会議員引退後も政治については活発な発言を続けている。現在のSPDの政策と反対にトルコの欧州連合加盟には真っ向から反対し、しばしば『ディー・ツァイト』にその理由を書いた論文を寄稿している。その関連において、「多文化共生社会は、インテリの幻想に過ぎない」と一蹴。また同盟90/緑の党との連立政権だったSPDのゲアハルト・シュレーダー政権が決定した原子力発電所の全廃にも懐疑的な目を向けており、「いわゆる地球温暖化に関するヒステリー」と批判している。また第二次世界大戦で国防軍の行った戦争犯罪を取り上げた「国防軍の犯罪展」については「危険な極左」と激しく非難。その政治的主張は単純な右翼・左翼の分類には当てはまらない。
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