親政と死、子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 16:08 UTC 版)
最初に、彼はテオドリックの後継者でいとこにあたるアタラリックとの条約(両国の国境線を確定すること、西ゴートが東ゴートに行う年貢をやめること)に署名した。プロヴァンスは東ゴートのものとなり、半島にあった駐屯地は廃止され、2つの王国は個々に独立した。彼は西ゴート王国の宝物庫を取り戻した。東ゴートとの条約のもとでガリア・ナルボネンシスが両国の国境となりセプティマニアまたはガリアと呼ばれるようになった。アマラリックは本拠地と宮廷をナルボンヌにおいた。 526年、彼はブルグントの血を引くフランクの王女クロティルドと結婚した。結婚したときから、カトリックの彼女を強制的にアリウス派に改宗させようとして虐待が始まった。王女を守る名目でメロヴィング朝が侵攻し、怒りに駆られたアマラリックは妻を殴って死亡させた。531年にフランク族はナルボンヌを陥落させ、アマラリックはバルセロナに逃亡し、そこで暗殺された。没年齢は30歳前後。テウディスが王位についた。アマラリックの死でバルト朝(バルト家)の正系は断絶し、この時点から東ゴート族が王となり、再び選挙制のプロセスがとられるようになった。ただし、一説ではあるがバルト朝(バルト家)の血筋自体は下記のように続いているとされる。 一人娘ゴイスウィンタ(生年不明 - 589年)がいるとされ、ゴイスウィンタは女子とはいえ、バルト朝(バルト家)の血筋を女系という形で後世に伝えた。後にアタナギルドと結婚。ブルンヒルド(543年頃 - 613年)とガルスウィント(540年頃 - 568年)の2女を儲けた。ガルスウィントはキルペリク1世の2番目の妻となったが、子は無かった。ブルンヒルドはシギベルト1世の妻となり、イングンド(イングンデ)、Chlodosind、キルデベルト2世の3子の母となった。このうち、イングンデはヘルメネギルド(ゴイスウィンタが再婚したレオヴィギルドとその先妻テウドシアの長男)と結婚し、一人息子アタナギルドを儲けた。アタナギルドはフラウィア・ユリアナ(テオドシウス朝、ローマ帝国末期の有力貴族アニキア家の末裔、東ローマ帝国皇帝アナスタシウス1世の姪の来孫(玄孫の子、曽孫の孫、孫の曽孫)、東ローマ帝国将軍アスパルの末裔、ユスティニアヌス1世の皇后テオドラの私生児の1人テオドラの玄孫)と結婚。その血筋は少なくとも8世紀初めまで、キルデベルト2世の血筋は7世紀初めまで存続した。 なお、ゴイスウィンタとレオヴィギルドとの間に子は無かった。レオヴィギルドの長男ヘルメネギルドとゴイスウィンタの孫娘イングンデとの結婚で、ゴイスウィンタの先夫アナタギルドと後夫レオヴィギルドの家系が合体することになる。
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