親政時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:47 UTC 版)
「オットー3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「親政時代」の解説
994年より14歳で親政を開始。オットー3世は古代ローマ帝国を復興して神政政治を行おうとする意志を抱いていた。 オットー3世も祖父や父と同様にイタリア遠征を敢行。ローマ貴族クレッシェンティウス2世の反乱によりローマ教皇ヨハネス15世がローマから追放され救援を乞うたのが要因であった。だが996年4月初旬にヨハネス15世は熱病で死去。オットー3世は同年4月12日の復活祭までパヴィアに滞在したのち軍を進め、地元貴族を退けてローマに入城、祖父オットー1世の曾孫ブルーノをグレゴリウス5世として教皇に選出した(996年5月3日)。996年5月21日にオットー3世はグレゴリウス5世から帝冠を受け帝位に就いた。 帝国の文書局長にしてオットー3世の教師であるオーリヤックのジェルベールとプラハ司教アーダルベルトを助言者としつつ、オットー3世はフランクとギリシャの両ローマ帝国、そして教皇の権威を統合した普遍的な帝国の建設を構想する。これは母テオファヌからローマ帝国の理念を教え込まれたからだとする説もある。そしてギリシャの宮廷儀式の幾つかを取り入れもした。 オットー3世がローマを離れるとクレッシェンティウス2世はギリシャのローマ皇帝バシレイオス2世の援助を受けて反乱を起こし、996年9月にグレゴリウス5世を追放し、翌997年5月に対立教皇ヨハネス16世を立てた。しかしオットー3世は同年冬に進軍を開始し、翌998年2月にはローマに凱旋する。ヨハネス16世は逃亡したが拿捕され、鼻と耳を削がれ、舌も切り取られ、手の指を折られ、眼を潰され、オットー3世とグレゴリウス5世の面前にて職位失効が宣言された。そののち現在のドイツ中部のフルダ修道院に移送された。またクレッシェンティウス2世はサンタンジェロ城に篭城したものの、オットー3世は998年の復活祭に城を陥落させ、4月29日に斬首のうえ遺体を城壁に吊るした。
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