テオドシウス朝
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テオドシウス朝(テオドシウスちょう、英語: Theodosian dynasty)は、379年に東方正帝として即位したテオドシウス1世から始まり、457年までローマ帝国を支配した王朝である。
- ^ Theodosius I (top), Arcadius (left), and Honorius (right)
- ^ d·d·d·n·n·n·auggg· ("Our Lords the Augusti") : Theodosius (centre), Arcadius (left), Honorius (right)
- ^ d·n· arcadius p·f· aug· ("Our Lord Arcadius, Pious Happy Augustus")
- ^ Inscription: ael· eudoxia aug· ("Aelia Eudocia Augusta")
- ^ Inscription: d·n· honorius p·f· aug· ("Our Lord Arcadius, Pious Happy Augustus"), from Hoxne hoard
- ^ Inscription:d·n· galla placidia p·f· aug· ("Our Lady Galla Placidia, Pious Happy Augusta") The reverse shows Victory and a crux gemmata
- ^ Theodosius II (centre) blessing Valentinian III (left) and Theodosius' daughter Licinia Eudoxia (right)
- 1 テオドシウス朝とは
- 2 テオドシウス朝の概要
- 3 概要
- 4 系図
- 5 文化
テオドシウス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)
詳細は「テオドシウス朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 テオドシウス1世 ”大帝” FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS 東ローマ 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) 379年1月1日 – 395年1月17日 ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれ、自らも軍人として栄達する。東方正帝ウァレンスがゴート族との争いで敗死した後、西方正帝グラティアヌスによって東方担当の共同皇帝に任命される。グラティアヌス没後、その異母弟ウァレンティニアヌス2世を傀儡化し、実質的にローマ帝国全土を単独支配した。 395年1月17日 自然死 アルカディウス FLAVIVS ARCADIVS AVGVSTVS 東ローマ 377年 383年1月 – 408年5月1日 テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(東ローマ帝国)。 408年5月1日 自然死 ホノリウス FLAVIVS HONORIVS AVGVSTVS 西ローマ 384年9月9日 393年1月23日 – 423年8月15日 テオドシウス1世の次男。西方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(西ローマ帝国)。 423年8月15日 自然死 コンスタンティウス3世 FLAVIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS 西ローマ 生年不明ナイッスス(属州モエシア) 421年2月8日 – 421年9月2日 テオドシウス1世の娘婿で、アルカディウスとホノリウスの義弟。ホノリウスの共同皇帝を務める。 421年9月2日 自然死 テオドシウス2世 FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS 東ローマ 401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア) 408年5月1日 – 450年7月28日 アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没した。 450年7月28日 自然死 ヨハンネス IOHANNES AUGUSTUS 西ローマ 不明 423年8月27日 – 425年5月 ホノリウス死後、テオドシウス朝を疎んだ元老院から推挙され皇帝となる。しかし東方正帝テオドシウス2世が派遣したゲルマン人の将軍アスパルに敗れて処刑された。 425年5月 アスパルにより処刑される ウァレンティニアヌス3世 FLAVIVS PLACIDIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS 西ローマ 419年7月2日ラヴェンナ(イタリア本土) 424年10月23日 – 455年3月16日 コンスタンティウス3世の息子で、テオドシウス1世の孫。ヴァンダル族やフン族の侵略により西方領土の弱体化が進む。跡継ぎを持たないままに暗殺される。 455年3月16日 暗殺される マルキアヌス FLAVIVS MARCIANIVS AVGVSTVS 東ローマ 396年 450年夏 – 457年1月 テオドシウス2世の義兄(姉の夫)。義弟同様に跡継ぎに恵まれず、彼とその妻の死によってテオドシウス家は断絶した。 457年1月 自然死
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テオドシウス朝
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388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝として宣言された。グラティアヌスの異母弟である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。テオドシウス1世は391年まで西側に滞在し、西側でもキリスト教化を施行し、異教の禁止を発令した。392年5月にウァレンティニアヌス2世が変死すると、同年8月に元老院議員のエウゲニウスが西帝となったが、394年に息子ホノリウスに西帝を名乗らせたテオドシウス1世によって倒された。テオドシウス1世はホノリウスの後見として自身も西ローマ帝国に滞在し、395年に崩御するまでの4ヶ月間、東西の両地域を実質的に支配した。一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼ばれるが、これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。
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テオドシウス朝
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「東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「テオドシウス朝」の解説
詳細は「テオドシウス朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 テオドシウス1世“大帝” FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) 379年1月19日 – 395年1月17日 ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれた。379年、グラティアヌスによって共同皇帝とされた。グラティアヌスの異母弟ウァレンティニアヌス2世の死後、394年9月6日におきたフリギドゥスの戦いでエウゲニウスを破り、息子ホノリウスを西方正帝とすることでローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。 395年1月17日 自然死 アルカディウス FLAVIVS ARCADIVS AVGVSTVS 377年 395年1月17日 – 408年5月1日 テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく。 408年5月1日 自然死 テオドシウス2世“カリグラフォス” (能書家) FLAVIVS THEODOSIVS IVNIOR AVGVSTVS 401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア) 408年5月1日 – 450年7月28日 アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没した。 450年7月28日 自然死 マルキアヌス FLAVIVS MARCIANIVS AVGVSTVS 396年 450年夏 – 457年1月 テオドシウス2世の没後、ゲルマン人の将軍アスパルに支持され即位。テオドシウス2世の死後に彼の姉と結婚したためテオドシウス家の一員とみなされることもある。跡継ぎを持たないまま死亡した。 457年1月 自然死
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