菅原の造反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 22:26 UTC 版)
「新仁義なき戦い 組長の首」の記事における「菅原の造反」の解説
主演の菅原文太はこの年のハードスケジュールに堪忍袋の緒が切れ、『県警対組織暴力』撮影後会社に猛反抗、プロモーションには協力したが『県警対組織暴力』の後、1975年4月20日から、丸三ヶ月の間、入院も含め仕事を休んだ。この間、出演予定があった『資金源強奪』『新幹線大爆破』『暴力金脈』の三本を全て断り、7月21日にクランクインした『トラック野郎・御意見無用』で仕事復帰した。断った三本の出演交渉に於いて「会社のいいなりになってると殺される」、「今の東映のシステムでは、映画の出来、不出来や入り具合は、全て役者がかぶるようになる」などと反撥し、シナリオは勿論、配役やカメラマン、ポスターにまで文句を付けるようになり、「クレーム屋」「完全主義者」などと東映内部でニックネームが付けられた。中でも問題だったのは「実録路線は峠を越した」発言で、東映はかつて任侠映画をマンネリと批判を受けながら、手を変え品を変え引き延ばした実績があり、製作サイドが引き延ばそうと必死の努力の続けている中、実録路線のエースから先に終了宣言されては影響力も大きくイメージも悪い。菅原は「実録としての"仁義―"はもう終わったと思う。これからはフィクションとしての面白さが大事。だから私としては妥協は許されない。徹底的にダメを押して撮入した。私の代名詞ともなったシリーズを竜頭蛇尾に終わらせたくないですからね」などと話し本作のオファーを受けた。前作『新仁義なき戦い』は広島抗争の焼き直しのため、一応実録と言えるが、本作はフィクションで、実録でないため菅原は出演を承諾した。菅原を出すためにはフィクションにしなければならなかったのである。菅原の役柄も全作までと180度変わり、本作では自分では手を出さず、配下に組長の寝首をかかせるダーティドッグである。
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