荒木村重の反乱とは? わかりやすく解説

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荒木村重の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:03 UTC 版)

高山右近」の記事における「荒木村重の反乱」の解説

詳細は「有岡城の戦い」を参照 天正6年1578年)、10月末、右近与力として従っていた荒木村重主君織田信長反旗を翻した重の謀反知った右近はこれを翻意させよう考え、妹や息子有岡城人質出して誠意示しながら謀反阻止しようとしたが失敗した右近重と信長の間にあって悩み尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父助言求めた神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ。」とアドバイスした高槻城要衝の地であったため、信長右近味方につけるべく畿内宣教師達を説得に向かわせた。右近織田方につく意思はあったものの、重の下にある人質達の処刑恐れ判断し兼ねていた。 城内徹底抗戦訴える父・友照らと開城求める派で真っ二つとなっていた。懊悩した右近だが、信長領地返上することにより、織田との戦を回避し尚且つ重に対して出兵回避し人質処刑口実与えないという打開策思い至る右近紙衣一枚で城を出て信長前に出頭した重は城に残され右近家族家臣人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近離脱荒木勢の敗北大きな要因となった(後に重の重臣であった中川清秀織田軍に寝返った)。この功績認めた信長によって、右近は再び高槻城主として地位安堵された上に、摂津国芥川郡与えられ2万石から4万石加増された。同年11月右近摂津出陣してきた信長謁見した。信長はこれを喜び着ていた小袖脱いで右近与えた上に名馬贈り、更に後日には黄金30下賜した。右近そのまま有岡城攻略配され同年12月並びに翌年天正7年1579年4月信長各所付城入れた諸将中に右近の名が確認できる天正8年1580年)閏3月信長安土城城下新たに建築した邸宅諸将与え右近にも授与された。翌、天正9年1581年2月京都御馬揃えには一番隊摂津衆として参列同年8月右近信長使者拝命し、鳥取城攻めていた羽柴秀吉元へ参陣。信長秘蔵名馬3頭を秀吉授与し鳥取情勢詳細に信長報告する任を成した天正10年1582年3月甲州征伐において信長諏訪布陣した際は右近西国諸将一人としてこれに帯同していた。

※この「荒木村重の反乱」の解説は、「高山右近」の解説の一部です。
「荒木村重の反乱」を含む「高山右近」の記事については、「高山右近」の概要を参照ください。

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