英蘭の抗争とオランダの転落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)
「第2次百年戦争」の記事における「英蘭の抗争とオランダの転落」の解説
その間、イングランドではエリザベス1世に後継者がいなかったことから、スコットランドよりステュアート家のジェームズ6世をイングランド王として招いた(ジェームズ1世、在位:1603年 - 1625年)。しかし、王権神授説の信奉者である王と議会とはしばしば対立し、1621年には「議会の大抗議」が起こっている。なお、1623年にはモルッカ諸島でアンボイナ事件が起こり、マラッカ以東の東南アジア・東アジアのイングランド勢力がオランダ勢力によって駆逐され、同年、平戸商館を閉鎖して日本との交易からも撤退している。1630年代にはオランダは「東インドの王者」の地位をうちたて、これ以降イングランドは既述のとおりインドへの進出に専念するようになる。 次のチャールズ1世(在位:1625年 - 1649年)の代になっても権利の請願(1628年)、スコットランド反乱(1639年)、議会の大諫奏(1641年)など政治の混迷は続き、王と議会の対立はついに内戦へと発展(ピューリタン革命)、1649年には国王チャールズ1世が処刑されてオリバー・クロムウェルによる共和政が始まった。 クロムウェルは、さまざまな特権や産業統制を廃止して商工業の発展に努力し、なかでも1651年にはオランダの仲介貿易における覇権の打倒を企図して航海条例を発布し、英蘭戦争(第1次、1652年 - 1653年)を引き起こしてオランダの海上権に打撃を与えた。 王政復古後、イングランド軍が北米オランダ植民地ニューアムステルダムを占領したことを発端として、チャールズ2世(在位:1660年 - 1685年)を戴くイングランドとヨハン・デ・ウィット率いるオランダとの間で第2次英蘭戦争(1665年 - 1667年)が起こった。戦争の結果、ニューアムステルダムはイングランド領となり(現ニューヨーク)、オランダは北米における拠点を失うこととなった。 これにより、オランダは大西洋の海上権を失い、しだいに転落傾向をみせるが、その理由としては以下の諸点が考えられる。 オランダの主力商品であったアジアの香辛料の人気が落ちたこと イングランドの主力商品であったインド産の綿布(キャラコ)が大流行しはじめたこと 3次にわたる英蘭戦争とフランスによるネーデルラント継承戦争(南ネーデルラント継承戦争とオランダ戦争)で国力を消耗したこと 依然として豊かなオランダ資金がイングランドの産業に投資されるようになったこと とはいえ、「17世紀の危機」と称されるヨーロッパにおける停滞と混乱の時代は、しばしば「オランダの世紀」と称されるように、商業国家としての優位を保っていた。
※この「英蘭の抗争とオランダの転落」の解説は、「第2次百年戦争」の解説の一部です。
「英蘭の抗争とオランダの転落」を含む「第2次百年戦争」の記事については、「第2次百年戦争」の概要を参照ください。
- 英蘭の抗争とオランダの転落のページへのリンク