英蘭漁業紛争
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オランダとスペインの紛争は1609年から1621年までの休戦状態を除いて1648年のミュンスター条約締結まで続き、結局『自由海論』が両国の和平交渉に資することはなかった。そればかりか、『自由海論』の刊行はオランダとイギリス間の1世紀以上にも及ぶ論争の発端となってしまった。イギリス国王ジェームズ1世は『自由海論』に触発され、同書が出版された直後の1609年5月にイギリス沿岸の海における漁業を規制する旨の布告を発した。こうした情勢の中でイギリスとオランダは東インドとの香辛料の貿易について交渉を行うこととなり、1613年3月22日、グロティウスはオランダ東インド会社の通商を巡るイギリスとの交渉のための外交使節団の一員に任命され、ロンドンに行くこととなる。イギリスでは1614年にグロティウスの名が記された『自由海論』オランダ語訳が出版される前の1613年には、『自由海論』の著者がグロティウスであることが知られていたといわれる。この交渉において『自由海論』で海洋や通商の自由を説いたグロティウスは、東インドとの香辛料貿易の実質的独占をねらうオランダの立場を弁護することを任務としたのである。ここでグロティウスは次のように主張した。契約の権利はすべての人に認められた権利であり、オランダは契約した者に対してだけ商品を販売する契約をしたにしかすぎないため、航行の自由を侵害したこともなければ通商の全面的独占をはかろうとしているわけではない、と。グロティウスはこうした主張を『戦争と平和の法』の中でも述べている。このようなグロティウスの主張が『自由海論』で述べられた理論に適合するものであったかについては見解が分かれる。『自由海論』に適合するという立場によれば、グロティウスは個別の契約による独占に関する事例を述べているにしかすぎず、より全体的な航行や通商の自由に関する理論は維持されているという。しかし一方で、オランダが香辛料貿易の独占を主張している以上そうした全体的な理論への適合性には意味がないとする指摘もある。いずれにせよ『自由海論』で航行や通商の自由を説いたグロティウスにとって、香辛料貿易の独占をねらう自国の立場を擁護することは容易なことではなかったといわれる。結局この交渉ではオランダとイギリスは有意な成果を上げることはできなかった。イギリスとオランダの交渉は1615年にも行われ、グロティウスもこれに参加したが、やはり両国は合意に達することができなかった。その後ジェームス1世のあとを継いだチャールズ1世は、1633年の布告などで新大陸へと続く大洋、そして「イギリスの海」の支配を宣言した。そして1651年にイギリスが航海法を制定したことにより、イギリスとオランダは3度にわたり戦争(英蘭戦争)をすることとなったのである。
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