英蘭漁業紛争とは? わかりやすく解説

英蘭漁業紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 19:54 UTC 版)

自由海論」の記事における「英蘭漁業紛争」の解説

オランダスペイン紛争1609年から1621年までの休戦状態を除いて1648年ミュンスター条約締結まで続き結局『自由海論』両国和平交渉資することはなかった。そればかりか『自由海論』刊行オランダイギリス間の1世紀以上にも及ぶ論争発端となってしまった。イギリス国王ジェームズ1世『自由海論』触発され同書出版され直後1609年5月イギリス沿岸の海における漁業規制する旨の布告発したこうした情勢の中でイギリスオランダ東インドとの香辛料貿易について交渉を行うこととなり、1613年3月22日グロティウスオランダ東インド会社通商を巡るイギリスとの交渉のための外交使節団一員任命されロンドンに行くこととなる。イギリスでは1614年グロティウスの名が記され『自由海論』オランダ語訳出版される前の1613年には、『自由海論』著者グロティウスであることが知られていたといわれる。この交渉において『自由海論』海洋通商の自由説いたグロティウスは、東インドとの香辛料貿易実質的独占をねらうオランダ立場弁護することを任務としたのである。ここでグロティウス次のように主張した契約権利すべての人に認められ権利であり、オランダ契約したに対してだけ商品販売する契約したにしすぎないため、航行の自由侵害したこともなければ通商全面的独占はかろうとしているわけではない、と。グロティウスはこうした主張を『戦争と平和の法』の中でも述べている。このようなグロティウス主張『自由海論』述べられ理論適合するものであったかについては見解分かれる『自由海論』適合するという立場によればグロティウス個別契約による独占に関する事例述べているにしかすぎず、より全体的な航行通商の自由に関する理論維持されているという。しかし一方でオランダ香辛料貿易独占主張している以上そうした全体的な理論への適合性には意味がないとする指摘もある。いずれにせよ『自由海論』航行通商の自由説いたグロティウスにとって、香辛料貿易独占をねらう自国立場擁護することは容易なことではなかったといわれる結局この交渉ではオランダイギリス有意な成果上げることはできなかった。イギリスオランダ交渉1615年にも行われグロティウスもこれに参加したが、やはり両国合意達することができなかった。その後ジェームス1世のあとを継いだチャールズ1世は、1633年布告などで新大陸へと続く大洋、そして「イギリスの海」の支配宣言した。そして1651年イギリス航海法制定したことにより、イギリスオランダ3度にわたり戦争(英蘭戦争)をすることとなったのである

※この「英蘭漁業紛争」の解説は、「自由海論」の解説の一部です。
「英蘭漁業紛争」を含む「自由海論」の記事については、「自由海論」の概要を参照ください。

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