経営歴
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1959年(昭和34年)松風工業の社員8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立。当時の松風工業は倒産寸前で、退職が相次いでいたという。 1966年(昭和41年)同社長に就任。 1969年(昭和44年)創業12年で大阪証券取引所に株式を上場した[要出典]。 1973年(昭和48年)京都セラミックが音頭をとり、ジャパンソーラー・エナジーを設立する。その後、提携企業は撤退し、京セラが単独で事業を継続する。 1984年(昭和59年)通信事業の自由化に際し、京セラの資金を投入し第二電電 (DDI) を設立(後にケイディディや日本移動通信と合併し、今日のKDDIとなる)。 1988年(昭和63年)日本セラミックス協会会長に就任。 1998年(平成10年)会社更生法の適用を申請した、複写機メーカーの三田工業からの要請により、同社を「京セラミタ」として京セラの子会社に編入。9年かけて達成されるはずだった更生計画を、僅か2年で達成する。 2009年(平成21年)ワールド・アントレプレナーシップ・フォーラムで世界起業家賞を受賞。 2010年(平成22年)2月 日本航空会長に無報酬で就任する。「JALフィロソフィ」の策定など積極的な社員の意識改革に取り組み、全従業員の3分の1にあたる1万6千人のリストラを断行して、着任の翌期には営業利益1800億円の高収益企業に生まれ変わらせることに成功。赤字続きだった日本航空を3年足らずで再上場させた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}伊丹空港を視察した時、カウンター勤務の若い女性社員が月2千円のコスト削減効果を発表した。金額の少なさに周囲は困惑したが、稲盛氏は「そういう努力が一番大事なんだ」と大いに褒めた。この話はメールで部署を超えて広まった。 —【経営の視点】稲盛氏が褒めた「2000円節約」(塩田宏之)『日本経済新聞』2018年1月15日) 詳細は「JAL再生タスクフォース#経緯」を参照
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経営歴
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主要なものに限る。 1924年5月 - 1927年12月: 田口銀行頭取 1929年3月 - 1936年7月: 日清生命保険株式会社取締役社長 1930年6月 - 1939年4月: 京浜電気鉄道取締役会長 1935年2月 - 1939年4月: 湘南電気鉄道取締役会長 1935年6月 - 1940年2月: 横浜倉庫株式会社取締役社長 1935年12月 - 1940年2月: 株式会社東京株式取引所理事 1936年12月 - 1940年2月: 錦華紡績株式会社取締役会長 1937年6月 - 1939年4月: 京浜地下鉄道株式会社取締役社長 1939年4月 - 1940年2月: 東京発動機株式会社取締役社長 1939年4月 - 1940年2月: 深坂炭鉱株式会社取締役社長 1939年5月 - 1940年2月: 奉天機器製造株式会社取締役社長
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