終わりなき危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 20:29 UTC 版)
「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の記事における「終わりなき危機」の解説
1823年の立憲議会の日々以来存在してきた、統治についての皇帝と立法府の間の勢力均衡のイデオロギー的争いは、1826年の大議会(いまのブラジル議会)の開会とともに再燃した。ペドロ1世と考えを同じくする勢力の政治家たちは君主が自由に大臣、政策、統治方針を選択すべきだと考えていた。これに反対する自由主義派として知られる政治家は、内閣は統治の方針を決める権限を保持すべきであり、同時に内閣は議会に責任ある多数派からの代表者から構成されるべきだと考えた。 厳密に言えばペドロ1世支持派も自由主義派の両方とも自由主義思想と立憲君主制を提唱していた ペドロ1世の統治者としての失敗にもかかわらず、彼は憲法を尊重した。彼は選挙または信任投票の不正に介入しなかったし、政府によって裁可された法律の署名を拒否しなかったし、言論の自由になんら制約を加えなかった。 。貴族院の解散は君主大権の権限内だったが、それが自分の目的に合意しなかったときか立法院の開会を延期するときには、貴族院を解散せずに、新たな選挙を実施した。自由主義的な新聞とパンフレットはペドロ1世がポルトガルで生まれたことを明らかな罪(たとえば、ペドロの関心の多くはポルトガルを取り巻く情勢に向けられていた)と誤った攻撃(たとえば、彼は憲法を抑圧する謀議に関与して、ブラジルとポルトガルを再統合しようとしていた)の両方を補強するのに取り上げ。自由主義者たちは、オ・シャラサことフランシスコ・ゴメス・ダ・シルヴァ(ポルトガル語版)を含むブラジル宮廷にいるポルトガル出身の皇帝の友人らがこれらの陰謀に関わっており、「影の内閣」を形成していると疑っていた。実際は、彼らの中にこのような事柄に関心を示す者はいなかったし、彼らがどんな関心を持っていたにせよ、憲法を廃止し、またはブラジルをポルトガルの統制下に置こうとする宮廷の謀議などはなかったのである。 自由主義者による批判のもう一つの根拠はペドロ1世の奴隷制度廃止の考えに関係していた。皇帝は実際奴隷制度廃止のための段階的な過程を考えていた。しかし、憲法では立法権は議会の手中にあり、議会は奴隷を所有する大土地所有者によって占められていた。彼らは奴隷制度廃止のいかなる試みにも反対であった。皇帝は自ら模範となることで議会を説得しようとし、サンタ・クルズ農場の奴隷を解放し、その土地を与えることで奴隷制廃止のモデルとした。。ペドロ1世はまたほかの進歩的な思想を公言していた。1822年1月9日に当時摂政皇太子だった彼がブラジルに残る意向を宣言したとき、人々がペドロの馬車から馬を解き放ち、馬車を自ら引くことで彼の栄誉を讃えようとしたのを彼は拒否した。彼の返答は王権神授説と貴族の血統の優位性と人種の白人優位説の公然たる非難であった。「我が同朋たる人間たちがただの人を神のように讃えるのを目にするのは大変悲しい。 私は我が血潮の色が黒人と同じ色であることを知っている」。
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