ペドロ1世 (ブラジル皇帝)とは? わかりやすく解説

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ペドロ1世 (ブラジル皇帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 06:56 UTC 版)

ペドロ1世ポルトガル語: Pedro I1798年10月12日 - 1834年9月24日)は、ブラジル帝国初代皇帝(在位:1822年 - 1831年)。ポルトガル国王としてはペドロ4世ポルトガル語: Pedro IV、在位:1826年)と呼ばれる。ブラジルでは一般にドン・ペドロ1世(ドン・ペドロ・プリメイロ)、「解放者[1]とよばれ、ポルトガルでは「戦争王[2]」と呼ばれている。


  1. ^ 1822年9月7日のペドロの騎馬を目撃した2人、ベルキオール・ピニェイロ・デ・オリヴェイラ(Belquior Pinheiro de Oliveira)神父の1826年9月7日の記録と、マヌエル・マルコンデス・デ・オリヴェイラ・エ・メロ(Manuel Marcondes de Oliveira e Melo、のちのピンダモニャンガバ男爵)の1862年4月14日の記録の両方とも、ペドロの馬はベスタ・バイア (besta baia つまり鹿毛の獣) (Costa 1972, Vol 295, pp. 74, 80)であったと記している。1853年刊行の書物とアントニオ・レイテ・ペレイラ・ダ・ガマ・ロボ(Antônio Leite Pereira da Gama Lobo)大佐と歴史家のパウロ・アントニオ・ド・ヴァレ(Paulo Antônio do Vale)ら他の目撃者の証言に基づくと、それはザイノ("zaino"、鹿毛の馬)(Costa 1972, Vol 295, pp. 75, 80)であった。「ベスタ・バイア」と「ザイノ」が意味するものは一見似ており曖昧である。ポルトガル語の「ベスタ」は、英語のbeastと同じように、人間以外の動物、とくに大型の四足歩行の哺乳類を指す。しかし、ブラジルでは昔はベスタとは牝馬をさし、1946年刊行の辞書(Freira 1946, p. 1022)及び1968年(Carvalho 1968, p. 158)の辞書にも認められる。この用法はブラジルの北東部および北部地域を除く地域では途絶えているが(Houaiss & Villar 2009, p. 281)、ポルトガルではいまだに牝馬の意味で「ベスタ」を使用することがある(Dicionários Editora 1997, p. 205)。したがって、性別を問わない「ザイノ」と「鹿毛の獣(牝馬)」は一致する。ペドロの2人の伝記作家、ペドロ・カルモン(Pedro Calmon)(Calmon 1975, p. 97)とニール・マコーレイ (Macaulay 1986, p. 125)はペドロの愛馬を鹿毛の牝馬と断定している。ペドロは1日で平均108kmほどを騎行できる傑出した騎手で、護衛と随行者を置いてたった5日間でこの馬でサンパウロから首都リオデジャネイロまで踏破している(Costa 1972, Vol 295, p. 131)。ペドロの腹心「オ・シャラサ」("O Chalaça"、「道化者」)ことフランシスコ・ゴメス・ダ・シルヴァポルトガル語版は8時間ほど遅れてペドロの次に首都へ帰還した(Costa 1972, Vol 295, p. 133)。
  2. ^ 当時、口論が白熱してペドロ1世がマリア・レオポルディナの子宮を蹴ったという根拠のない噂が広まった。夫婦喧嘩はドミティリア・デ・カストロとマーレシャル(Mareschal)男爵ヴェンツェル・フィリップ・レオポルドによって目撃されている。駐ブラジルの大臣としてマリア・レオポルディナの父帝に仕えており、それゆえ彼女の肩を持つ理由があるマーレシャルは実際に何が起きたかを記録したただ一人の目撃者であった。彼によれば、夫婦は苦々しく諍い、互いを罵り合ったが、物理的な暴力については何も記録がない(Rangel 1928, pp. 162–163; Calmon 1975, pp. 14–15; Costa 1995, p. 86)。歴史家のアルベルト・ランゲル(Rangel 1928, p. 163)、ペドロ・カルモン(Calmon 1950, p. 137; Calmon 1975, p. 14)、オタヴィオ・タルクィニオ・デ・ソウザ (Sousa 1972, Vol 2, p. 242)、セルジオ・コレア・ダ・コスタ (Costa 1995, p. 86)とロデリック・J・バーマン(Barman 1999, p. 17)はペドロ1世が妻に物理的な危害を加えた可能性を否定し、確かなのは激しい言葉に限定された言い争いだけであるとした。しかしながら、1831年でもこの噂は、告発が根拠不明なのにも関わらず、実際に起きたと信じている人々によって記憶され続け、なおもささやかれていた(Sousa 1972, Vol 2, p. 242)。バーマンはマリア・レオポルディナの死は「内外いずれにおいても、神聖性の名残」をペドロ1世からはぎ取ったとして、ペドロの皇后への暴力を否定する説をとっている。(Barman 1988, p. 147)。




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