索麺から素麺への変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:28 UTC 版)
奈良時代から南北朝時代には形状が不明であった索餅がこの時代を境に形状が解明されてきているが、索麺はそれまでの索餅と形状も名称も似ているため、言葉の混用が起きたと考えられている。 中国では日本よりもはるかに早く、北宋時代に「索麺」の表記が出ている。南宋時代末期から元初期頃の『居家必要事類全集』という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」等といった日本の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてある。 室町時代は、茄でて洗ってから蒸して温める食べ方が主流で、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれた。この時代の文献には、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されている。また、この時代の宮廷の女房詞では、素麺を「ぞろ」と呼んでいた。 江戸時代には、七夕(七姐節)にそうめんを供え物とする習俗が広まっていった。これは、細く長い麺を糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものである。 寺島良安の『和漢三才図会』(1712年)では索餅を「さふめん」と読み、「俗に素麺ともいう」としており、江戸時代初期の儒学者林羅山も同様の認識を示している。また、江戸末期の記録者斎藤月岑が『東都歳時記』(1838年)の中で「家々冷索麺を饗す」と記しているように、江戸末期まで「そうめん」の表記は混乱が見られる。
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