第2世代との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 03:23 UTC 版)
アマチュア時代のJFAは財源も少なく、JSLに所属する各企業の力で支えられ、出向者や学閥の縁故により運営される身内的組織だった。その中でも古河、三菱、日立の3社は協会内に人材を派遣し、派遣期間はその給与を企業側が支払い続けるという形で財的にも人的にもJFAを支援した。こうした経緯から協会内部での3社や3社の出身者からなる派閥の影響力は強まっていった。 協会関係者の多くは古河、三菱、日立、新日鉄出身のサラリーマンであることから、プロフェッショナルという価値観に対する偏見や反感が根強く、1970年代末に台頭をはじめた読売サッカークラブや日産自動車サッカー部といったプロ化志向のチーム出身者への冷遇となって現れた。かつてJSLが創設された際には御三家が主導的な役割を果たしたものの、後のプロ化への流れの中ではアマチュアリズムを堅持しようとする保守勢力と化した。 なお、木之本興三の証言によれば、読売クラブの実力や「契約選手」と称される非公式な雇用形態が無視できないものとなっていた1980年代初頭、アマチュアリズムおよび反読売の急先鋒となっていたのが日立出身の高橋英辰だったといわれる。 また、1990年代初頭までの日本代表の監督人事は御三家の意向が反映されていたといわれる。代表監督は3社の出身者や縁故者でほぼ固められており、1980年代後半には日産自動車の監督を務めていた加茂周の日本代表監督への起用が検討された際には、日産出身であったことが障壁となり見送られた。その一方で三菱出身の横山謙三のように、1990 FIFAワールドカップ予選で惨敗を喫するなど成績が低迷しファンからも選手からも能力に疑問を呈され、批判を受けながらも、御三家出身者ということでその座を安堵された者もいた。ただし、上記の様な財政状況から有能な指導者を直接雇用することが困難であったことや、指導者としての能力を問う以前に派遣元となる企業側の事情が最優先されていたためという指摘もある。 こうした姿勢から旧態依然と批判を受け、御三家の本元となる各サッカー部が1980年代に入った後も日本人アマチュア選手による純血主義を貫き、プロ志向の読売や日産などに比して魅力を失っていた点からも、サッカー界における指導的立場を失うものと考えられた。一方、1980年代後半に入ると御三家の中でも革新的な意見を持つ古河出身の木之本や三菱出身の森健兒らが中心となったプロサッカーリーグ設立構想が浮上し、古河出身の川淵三郎を初代チェアマンとしたJリーグの設立へと繋がった。
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