第二段階:1919年4月〜1919年6月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:30 UTC 版)
「ハンガリー・ルーマニア戦争」の記事における「第二段階:1919年4月〜1919年6月」の解説
1919年3月19日以降、ルーマニアはハンガリーとソ連の二国の共産主義国家と隣接することとなった。パリ講和会議のルーマニア代表はルーマニア軍によるハンガリー共産主義政権打倒の許可を求めた。連合国理事会は共産主義の脅威はよく認識していたもののアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン、イギリス首相ロイド・ジョージとフランス首相ジョルジュ・クレマンソーがフランスとドイツの国境問題を巡って意見の不一致を起こしている状態だった。特にアメリカ代表はフォッシュ元帥らフランスの強硬派が今度はドイツとソ連を相手に新たな戦争を引き起こすと考えていた。このため、理事会の代表たちはハンガリーの状況を緩和するよう努めた。4月4日に南アフリカ軍のスマッツ将軍がブダペストへ赴き、クン・ベーラに以前カーロイへ通告されたと同じ条件で耐えるよう申し入れた。連合国によるこの行動はハンガリー共産政権を承認することも意味している。ヴィー通告の条件を満たすこととの交換にハンガリーの経済封鎖を解除し、ルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラビアとの領土問題について好意的に取り計らうことにもなっていた。だが、クンはルーマニア軍をムレシュ川まで後退させるよう要求し、話し合いは中断してしまった。 一方で、クンはルーマニア、チェコスロバキアと戦争ができる軍隊をつくる時間を稼ごうとしていた。ルーマニア戦線では第一線部隊20,000人がルーマニア軍と対峙していた。クンはオラデア、ジュラ、デブレツェン、ソルノクその他の募兵所を用いて更に60,000人の第二線部隊を編成しようとしていた。ハンガリー軍は元オーストリア・ハンガリー軍の将兵による精鋭部隊と質の悪い志願兵の混成だった。軍は野砲137門、装甲列車5両を装備していた。雑多ではあったが、この軍隊は共産主義のイデオロギーよりも民族主義によって結束しており、士気は高かった。クンはまたソ連が東方からルーマニアを攻撃することも望んでいた。 クンとの話し合いが中断したため、ルーマニア政府は軍部に対して軍事行動を取り、ハンガリー政府を2月28日の境界線に関する連合国の決定に従わせるよう命令を下した。トランシルヴァニアのルーマニア軍は歩兵64個大隊、騎兵28個大隊、カノン砲160門、榴弾砲32門、装甲列車1両、3個飛行大隊、工兵2個大隊を有しており、北方と南方の二個集団から成っていた。トランシルヴァニアのルーマニア軍の総指揮はゲオルゲ・マルダレスク(Gheorghe Mărdărescu)将軍が執り、モショイウ将軍は北方集団の司令官に任じられた。ルーマニア軍の作戦計画は強力な北方集団によってカレイとオラデアを奪取し、ハンガリー軍の精鋭セーケイ師団を他の部隊から分断することだった。その後、集団はハンガリー軍の側面を進撃する。同時に南方集団はラドナ川とベイウシュまで前進し、北方集団の側面運動の軸兵となる。軍はティサ川で停止することとなっていた。攻勢の開始は4月16日と定められた。
※この「第二段階:1919年4月〜1919年6月」の解説は、「ハンガリー・ルーマニア戦争」の解説の一部です。
「第二段階:1919年4月〜1919年6月」を含む「ハンガリー・ルーマニア戦争」の記事については、「ハンガリー・ルーマニア戦争」の概要を参照ください。
- 第二段階:1919年4月〜1919年6月のページへのリンク