第二次世界大戦と分割占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 20:34 UTC 版)
「ヴェネツィア・ジュリア」の記事における「第二次世界大戦と分割占領」の解説
「イストリア半島#第二次世界大戦とトリエステ帰属問題」も参照 第二次世界大戦中の1943年9月、イタリア王国(バドリオ政権)が連合国に降伏すると、ドイツ軍が北イタリアを占領した。ヴェネツィア・ジュリアは名目上イタリア社会共和国(サロ共和国)の領域となったが、実際にはドイツ軍が支配し、アドリア海沿岸軍事地区 (Operational Zone Adriatic Coast) とされた。 1945年5月、ドイツ軍が降伏した時点で、ヴェネツィア・ジュリアの大半はチトー率いるユーゴスラビアのパルチザンが占領していた(ユーゴスラビア人民解放戦争参照)。また、重要な港湾都市であったトリエステやプーラ(ポーラ)には連合国軍も上陸した。1945年6月に暫定的に引かれた「モーガン線」 (Morgan Line) を境界として、ヴェネツィア・ジュリアは、プーラ・ゴリツィア・トリエステ・イゾンツォ川河谷やカルスト台地の主要部を含む「A地区」(連合国軍占領地区)と、それらの地区以外で面積の大部分を占める「B地区」(ユーゴスラビア軍占領地域)とに分けられた。この地域の英語名称「ジュリアン・マーチ」は、従来の「ヴェネツィア・ジュリア」に代わり、この係争地帯を指す政治的に中立な呼称として用いられるようになったものである。 1947年のパリ条約で、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はその占領地域の大部分を領土として認められ、イストリア半島のプーラも獲得したが、トリエステ周辺は国際連合管轄下のトリエステ自由地域として依然分割占領状態が続き、帰属問題が棚上げされた。 ユーゴスラビア占領地域からは、1947年頃までにほぼ全てのイタリア人の住民がイタリアへと去っていった。ユーゴスラビア当局による迫害の結果生じたイストリア難民 (Istrian exodus) の数には議論もあるが、イタリアの論者からは25万~35万人という数が示されている。 1954年、イタリアとユーゴスラビアがロンドンで結んだ協定によって、トリエステ自由地域北部(A地区)におけるイタリア、トリエステ自由地域南部(B地区)におけるユーゴスラビアの施政権それぞれが相互に承認された。1975年にオージモ条約により、A地区・B地区それぞれがイタリア領・ユーゴスラビア領として確定されるとともに、ユーゴスラビアはトリエステ港への自由なアクセスを保障された。
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