第一次世界大戦から解体まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:17 UTC 版)
「トゥルグート・レイス級装甲艦」の記事における「第一次世界大戦から解体まで」の解説
第一次世界大戦勃発時には、ドイツから譲渡・改名された巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」が加わり、これと並んで本級2隻は依然としてオスマン帝国海軍の貴重な大口径砲艦であった。この頃にはイギリス人によって運用されていた工廠設備はドイツ人に取って代わられ、ハード・ソフト共にバルカン戦争のころとは比べ物にならない程に整備能力が向上した。しかし、本級2隻はこの頃は度重なる老朽化により速力は10ノット程度に低下しており、海防戦艦程度の役割しか与えられていなかった。 1915年8月15日にマルマラ海で哨戒任務中だった「バルバロス・ハイレッディン」はイギリス海軍潜水艦「E-11」の雷撃を受けて撃沈され、253名の貴重な海軍将兵が失われた。一方、「トゥルグート・レイス」は幸運に見守られていた。 大戦末期、「トゥルグート・レイス」は、1918年1月20日の作戦で触雷・座礁した巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」の救助の任に当たった。 1918年1月20日に実施された巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」と「ミディッリ」のダーダネルス海峡襲撃は、連合軍の不意を突く作戦であった。しかしながら、海峡外に構築されていた連合軍の機雷原により「ヤウズ・スルタン・セリム」が触雷してしまった。幸いにも致命傷には至らず、オスマン帝国艦隊の作戦は続行され、艦隊はインブロス島に停泊していたイギリス海軍のモニター「ラグラン(HMS Raglan)」と「M28(en:HMS M28)」への砲撃を行い、撃破した。次いで、島にあった連合軍の無線所や灯台を砲撃し破壊した。攻撃を終えたオスマン帝国艦隊は海峡に引き返し帰還を開始したが、この時に島を大回りで回ったために再び連合軍の機雷原に踏み込んでしまった。この時は「ミディッリ」が触雷し、航行不能となって漂流した。「ミディッリ」艦長は浸水を抑えるために後進をかけたが、これにより抜けたはずの機雷原に再び進入してしまい、合計4発を触雷し沈没した。この時、「ミディッリ」の救助を行おうとした「ヤウズ・スルタン・セリム」ももう1発の機雷に触雷し、大破した。このため、主力艦の喪失を恐れた同艦の艦長は、「ミディッリ」乗員の救助を駆逐艦に任せて撤退を開始する。しかし、島の襲撃に対して連合軍側の駆逐艦が到着したためにオスマン帝国の駆逐艦隊も撤退せざるを得なくなり、「ミディッリ」の生存乗員は連合軍側の駆逐艦により救助され、捕虜となってしまった。この後「ヤウズ・スルタン・セリム」は撤退中に機雷原に再度踏み込んでしまい、3発目の機雷に触雷した。度重なる浸水により吃水の増加した同艦は海峡内で操舵を誤り、浅瀬に座礁して行動不能となった。この直後にはオスマン帝国側にも連合軍側にも同艦を離礁させ救出あるいは捕獲する戦力がない状態であった。 「ヤウズ・スルタン・セリム」の救助には「トゥルグート・レイス」があたることとなった。1月26日に到着した「トゥルグート・レイス」は、浅瀬に横たわる「ヤウズ・スルタン・セリム」の艦首に対し、艦尾から接近して曳航索を繋ぎ、本艦のスクリューが発生させる水流を「ヤウズ・スルタン・セリム」の艦首が刺さった砂州にぶつけて砂を押し流した。この「トゥルグート・レイス」の救助活動により「ヤウズ・スルタン・セリム」は離礁に成功し、コンスタンティノープルへ撤退することができた。 第一次大戦後は他の主要艦艇とともに一時連合国側の管理下に置かれた。その後セーヴル条約に基づくオスマン帝国の軍備制限によって連合国の戦利艦となることとされたが、同条約は最終的に批准されず、本艦を含む艦艇の引渡しは行われなかった。そしてローザンヌ条約によりトルコの軍備保持が認められたことから、本艦は「ヤウズ・スルタン・セリム」と共に新生トルコ海軍の戦力として使用されることとなった。第一次世界大戦の時点でも既に旧式化していた艦ではあったが、1933年まで現役にあり、以後も1950年代まで練習艦として使用された。その後除籍され、1953年に解体処分された。
※この「第一次世界大戦から解体まで」の解説は、「トゥルグート・レイス級装甲艦」の解説の一部です。
「第一次世界大戦から解体まで」を含む「トゥルグート・レイス級装甲艦」の記事については、「トゥルグート・レイス級装甲艦」の概要を参照ください。
- 第一次世界大戦から解体までのページへのリンク