竹下亘派時代
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額賀の就任以降、指導力に派内で長らく不満がくすぶり続けたが、2018年1月に参院幹事長で参院平成研会長の吉田博美を中心に派内の参院議員が集団離脱を盾に額賀の退任を要求。額賀は3月に退任を表明し、後任に創設者の竹下の異母弟である竹下亘を指名した。 同年4月に竹下が会長に就任、これにより、26年ぶりに「竹下派」が復活(「大政奉還」とも表現された)。会長代行には茂木敏充と吉田博美を据えた。 2018年の総裁選では、竹下は派として一致した対応を模索したが、派内の衆院議員の多数は現総裁の安倍晋三を推す一方、参院側では青木幹雄の影響などから対抗馬の石破茂支持となり衆参で分裂。事実上の自主投票を選択せざるをえなくなり、かつてのような「鉄の結束」とは程遠い姿を、またしても露呈することになった。 2019年1月9日、竹下が記者会見し、食道がんであることを公表し、会長にはとどまるものの、派閥の運営は当面は最高顧問の額賀、会長代行の茂木、吉田らに委ねることになった。このうち、吉田は病により2019年7月21日投開票の第25回参議院議員通常選挙に立候補せず、同年10月に死去した。その後、竹下は体調が整わないことから、第49回衆議院議員総選挙には立候補せずに政界からの引退を表明し、2021年9月に現職のまま死去した。これ以降一部メディアでは「旧竹下派」の呼称が用いられるようになった。 竹下の死と同日に告示された2021年の総裁選では、会長代行の茂木が「グループとしては大半が岸田氏支持でまとまった。方向性が明確になった」と話し、他候補の支持を認めつつも、派閥として事実上岸田文雄を支持する形となった。竹下自身は生前に岸田を支持することを表明していた。同年10月4日に発足した岸田内閣では、竹下派から党内最多の4人が入閣した。 同年10月6日、石破派を退会していた古川禎久(岸田内閣で法務大臣に就任)が入会し、前日に入会していた小松裕も加え志公会と並んで党内第2派閥となった。 同年10月31日の第49回衆議院議員総選挙では自民党が絶対安定多数を確保したものの、幹事長の甘利明が小選挙区(神奈川県第13区)で落選し、比例代表で復活当選したことを理由に辞任。後任に茂木が就任した。平成研からの幹事長就任は野中広務以来21年ぶりのこととなった。
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