竹下内閣成立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 18:51 UTC 版)
裁定の結果、安竹宮3派と中曽根派、更に竹下と良好な関係にあった河本派の主要5大派閥は主流派となり、竹下内閣は自民党政権ではじめての非主流派の閣僚がいない内閣となった。 1988年6月から発覚・報道され始めたリクルート事件では、安倍晋太郎幹事長・渡邉美智雄政調会長および宮澤喜一大蔵大臣(いずれも当時)も未公開株を譲り受けていたことなどが報道されたため、彼らは全員、ポスト竹下から後退することとなった。ポスト竹下は宇野宗佑、その次は海部俊樹となった。その海部は中曽根裁定について、結局安倍が弱気になり竹下に譲る形で降りたという見立てをしている。 1991年5月15日、安倍はついにその機をつかむことなく病没したため、結果として中曽根裁定が安倍の総理総裁への道を閉ざした形となった。 1991年10月27日、ポスト海部として、宮澤は経世会の支持を得て自民党総裁に選出される。しかし、その経世会の内紛等による内閣不信任決議案可決・政権交代のため、1955年以来連続して続いていた自民党内閣の最後の内閣総理大臣となる。
※この「竹下内閣成立後」の解説は、「中曽根裁定」の解説の一部です。
「竹下内閣成立後」を含む「中曽根裁定」の記事については、「中曽根裁定」の概要を参照ください。
- 竹下内閣成立後のページへのリンク