竹下内閣外務大臣
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1987年(昭和62年)に竹下内閣で外務大臣に就任。 1988年(昭和63年)3月26日における参議院予算委員会で、日本共産党の橋本敦の北朝鮮による日本人拉致問題に関する質問が出て、梶山静六国家公安委員会委員長が北朝鮮による拉致が濃厚であると答弁した時、宇野は外務大臣として北朝鮮の拉致が現時点では仮定の話ではあることを前置きした上で、「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁した。 1988年(昭和63年)6月に日本の外相として初めてイスラエルを訪問し、シモン・ペレス外相と会談した。その際、宇野が「イスラエル軍は、占領地から全面撤退すべきであります。日本の繁栄は国民の汗と涙の結晶。武力で土地を取る国には、金は一銭も出せない」と言うと、ペレス外相から「愛国心を喚起しないと、われわれは選挙が大変なんだ」と理解を求める声が返ってきた。 1989年(昭和64年)1月7日、外遊先で昭和天皇崩御の報に接し、テレビカメラの前で涙を見せた。 外務大臣時代には「原子力発電所に反対する人はクーラーを使うなと言いたい。」と発言して脱原発団体から抗議されたことがある。
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