竹下の金庫番
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 02:10 UTC 版)
島根県大社町出身。島根県立大社高等学校、明治大学工学部卒業。大学卒業後、ベアリングメーカーに就職したが1953年に島根選出の高橋円三郎衆議院議員の秘書となって政界に職を得る。1956年に高橋が死亡したためやはり島根選出の小瀧彬の秘書となる。1958年に小瀧が死去すると、ほぼ同時期に高橋の地盤を継いで衆議院議員となった竹下登の秘書となる。以降、竹下が首相の座に上り詰めるまで、30年間にわたり秘書を勤める。 初当選当時の竹下は、県議時代から議員報酬の大半を政治活動に充てるなど、家計が自転車操業状態にあった。さらに公職選挙法違反で逮捕された24名もの支援者や運動員の世話まで加わり、活動資金を派閥の佐藤栄作に借用する状態であった。この事態から、竹下はまず資金を調達し、更にその調達・利用に関しては竹下本人に累が及ばないよう、秘書に形式上は全権を委任するという形をとることとなった。そしてその資金方面について担当することになったのが青木であり、青木は「竹下の金庫番」と呼ばれるようになる。 青木は竹下事務所の経営を一手に引き受け、その運営によって竹下の政治基盤の強化、スキャンダルについての危機管理に一役買っていた。具体的には、政局に関わる資金供与の際には、相手と名刺を交換してそこに領収書代わりに一筆書いていた。竹下はその後相手に電話をかけて「青木がそちらを訪問した」ことのみを確認し、資金供与の事実を念押しする(資金のことは一切触れていないため、問題になっても白を切ることができた)。政治家同士の資金供与で一筆とることは通常行われていなかったが、これによって後年、野党政治家に追及された時に「あなたと名刺を交換しましたよね」とさりげなく脅すことにより、相手をひるませることができた。また、資金供与の相手と賭け麻雀をやってわざと負ける、という手法をとることもあったという。
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