立家から江戸時代までの動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:46 UTC 版)
「室町家」の記事における「立家から江戸時代までの動向」の解説
鎌倉時代西園寺公経の四男、実藤によって創立された。四辻とも号する。また今出川家の邸宅が菊亭と呼ばれたことと同様に、室町家の邸宅は花亭と呼ばれた。 室町季顕以降、「室町殿」を名乗った足利将軍家を憚り四辻を称したが、明治期に家名を室町に戻した。なお足利将軍家には室町家本邸であった「花亭」も譲っている。 江戸時代初頭、四辻公遠の娘・与津子は後水尾天皇の典侍となり、天皇の寵愛を受けて皇子(夭折)と皇女(後の文智女王)を儲けたが、これが徳川和子の入内直前の出来事であったため、江戸幕府の怒りを買い、一時宮中から追放される羽目にあった。また、これに先立って与津子の姉(死後「桂岩院」と称される)は上杉景勝に側室として仕え、嗣子定勝を出産したが、百日余り後に死去した。また、猪熊事件で処刑された猪熊教利も公遠の子(桂岩院・与津子の兄弟)で、一時期高倉家及び山科家の当主になったものの、朝廷内の事情で当主を退いて別家を立てたことが明らかになっている。 江戸時代の家禄は200石だった。
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