私掠船の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:01 UTC 版)
16世紀中頃、カリブ海のスペイン貿易航路へフランス私掠船が盛んに襲撃を行い、イギリスがこれに続いた。1530年、プリマスの大商人ウイリアム・ホーキンズは私掠行為と密輸で巨大な利益を上げ、プリマスの市長になっている。こうした成功は愛国心や名誉、攻撃精神を喚起させ冒険商人と呼ばれる後続者たちを生み出した。 オランダ独立戦争において海外に逃亡したネーデルラントの貴族たちは「海の乞食団」を結成し、1569年にウィレム1世は私掠免許状を発行した。オランダ私掠船は新大陸から戻るスペイン商船を襲撃したり、スペイン支配下の町を焼き討ちするなどスペインの海上勢力に対してゲリラ戦を展開し、独立戦争に貢献した。 イギリス(イングランド)の私掠船の始まりは、1243年にヘンリー3世がゲオフレイ船長に与えた報復を目的とした許可が初めてとされているが、国家が積極的に奨励したのはエリザベス1世治下の英西戦争の時のことである。海軍力に劣るイングランドは、スペイン海軍と正面から戦うことを極力避け、代わりに私掠船を一種の準軍事組織として用い、表向き非正規の行動としてスペイン船を襲わせた。中でもフランシス・ドレークの私掠船による世界周航やカディス襲撃は偉業と讃えられた。アルマダの海戦に参加した200隻以上のイギリス艦船のうち、150-160隻は商船だったと言われる。特に西インド諸島海域に遊弋するイギリス私掠船の活動は激しく、当時のイギリス船そのものが「海賊船」と評価されることになった。 17世紀に入るとカリブ海のイスパニョーラ島を本拠とし、ウィンドワード海峡を通過するスペイン船を狙う海賊が現れた(バッカニア)。フランス政府は彼らに私掠免許を与えて公認し、続けてイングランドやオランダも彼らに私掠免許を与えた。オリバー・クロムウェルの「西方政策」によって1655年にジャマイカを占拠したイングランドでは、ジャマイカ総督のトマス・モディフォード(英語版)が積極的にバッカニアを公認してポート・ロイヤルの利用を認め、彼らの略奪品によって同地は急速に発展した。特にそのなかの一人ヘンリー・モーガンはスパニッシュ・メインの18の都市、4つの町、多数の村を襲撃し、パナマ地峡を超えパナマ市を略奪、破壊した。この功績によりモーガンはナイトに叙され、ジャマイカの副総督となった。 18世紀の英仏戦争中には非常に多数の私掠船が活動した。スペイン継承戦争、アン女王戦争ではフランス側が多くの私掠船を繰り出し商船を襲撃したが、制海権は常にイギリス側に握られ戦争の大勢に影響を与えることはできなかった。アメリカ独立戦争では1775年に正規の軍艦と商船改造の私掠船からなる大陸海軍が編成されたが、参加した私掠船は合計すると約1500隻に及んだ。ジョン・ポール・ジョーンズはイギリス本国沿岸での牽制攻撃を企図し戦果を上げたが、多くの私掠船は金目当てであり、専ら輸送船や商船を襲撃した。 フランス革命からナポレオン戦争にかけてフランス側の私掠船が活躍し、交戦国・中立国に対し略奪し、大陸封鎖令を側面から支援した。革命後、仏領西インド諸島では条件が自由に書き込める私掠免許証が公然と売りさばかれた。また、チャールストン在住のフランス人たちは、偽造された委任状を元に私掠船を作り破壊活動を行った。1797年のアメリカ国務省の報告では年間に300隻以上のアメリカ商船がフランス私掠船に拿捕されたという。翌年の1798年にアメリカとフランスは非公式な戦争状態に入り、アメリカ側も200隻に及ぶ商船に対フランス私掠免許と報復的拿捕認可状を発行した。 アメリカの南北戦争において南部連合政府は私掠船免状を発行したが、それにより活動した少数の私掠船はたちまち圧倒的に優勢な北部海軍により鎮圧された。 1856年のパリ宣言でヨーロッパ列強は私掠船の利用を放棄した。さらに1907年のハーグ平和会議で武装した商船は軍艦として登録されるべきことが国際法として規定され、アメリカ合衆国を含む諸国もそれに従い、私掠船の慣習は消滅した。パリ宣言以後、戦時に民間船は特設艦船として用いられることとなった。
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