フランシス・ドレーク
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サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake、1543年頃 - 1596年1月28日)は、エリザベス朝のイングランドのゲール系ウェールズ人航海者、海賊(私掠船船長)、海軍提督。イングランド人として初めて世界一周を達成[1]。
註釈
- ^ 紋章授与のきっかけは、ドレークに勝手に紋章を使われたデヴォン州の旧家の人物が女王に不平を訴えたことであるという。女王はこの嘆願に対して「サー・フランシスにはもっと優れた紋章を与えるつもりだ」と切り返した逸話が残る。
出典
- ^ Maxine Snowden『北極・南極探検の歴史 極限の世界を体感する19のアクティビティ』丸善出版、2016年、17頁。ISBN 978-4-621-30068-8。
- ^ ボイス・ペンローズ 荒尾克己訳 (1985). 大航海時代 旅と発見の二世紀. 筑摩書房. p. 221
- ^ ネヴィル・ウィリアムズ 向井元子訳 (1992). 『ドレイク』. 原書房. p. 125
- ^ a b スティーヴン(2019) p.102
- 1 フランシス・ドレークとは
- 2 フランシス・ドレークの概要
- 3 フランシス・ドレークが登場する作品
- 4 関連項目
フランシス・ドレーク
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「最南端到達の歴史」の記事における「フランシス・ドレーク」の解説
詳細は「フランシス・ドレーク」を参照 フランシス・ドレークは1577年11月15日にプリマスを出港し、その旗艦ペリカン(後にゴールデン・ハインドに改名)の下に全5隻の艦隊を率いていた。その主目的は略奪であり探検ではなかった。当初の標的はチリやペルーの太平洋岸にあるスペイン領の無防備な町だった。ドレークはマゼランのルートを辿り、6月20日にはプエルト・サン・フリアンに到着した。2か月間近く停泊した後、艦隊を3隻と小さなピンネース1隻にして出港した。8月23日にマゼラン海峡に入り、9月6日に太平洋に出た。 ドレークは北西に針路を採ったが、翌日に突風が吹き艦隊は散り散りになった。マリゴールドは大波で沈没し、エリザベスはなんとかマゼラン海峡まで戻り、その後は東に戻ってイングランドに帰った。ピンネースは後に失われた。強風は7週間以上も続いた。ゴールデン・ハインドは西と南に遠く流された後に、陸地を求めて戻っていた。10月22日、船はある島の沖合に停泊し、ドレークはその島をエリザベス島と名付けた。そこで薪を集め、食料にするためにアザラシとペンギンを捕まえた。 ドレークの下のポルトガル人水先案内人ヌノ・ダ・シルバに拠ると、その停泊した位置は南緯57度だった。しかし、現在その緯度に島は無い。当時未発見のディエゴ・ラミレス諸島は南緯56度30分にあるが、樹木が無く、ドレークの乗組員が薪を集めた島ではありえない。このことは航法計算が間違っていて、ドレークは当時未命名だったホーン岬かその近く、おそらくオルノス島に上陸したことを示している。彼の最南端到達記録はホーン岬の南緯55度59分と推定できるのみである。ドレークはその報告書の中で「最先端の岬、あるいはこれら全ての島の突端は南緯56度近くにある。そこから南には大きな島が見られず、大西洋と南海が出会っているだけだった。」と記した。このホーン岬より南の開けた海はその後ドレーク海峡と呼ばれるようになったが、ドレーク自身がそこを航海したわけではなかった。
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