祭典・行事
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「猿田彦神社 (福岡市)」の記事における「祭典・行事」の解説
猿田彦神社の行事としては、庚申祭(こうしんさい)が庚申(かのえさる)の日に行われる。これは中国から伝わった六十干支(ろくじっかんし)という暦による十干と十二支を組み合わせた干支で60日周期となっており、年に6回か7回執り行われる。 庚申祭の日のみ授与(販売)される猿面(さるめん)は、玄関に掛けることで魔が「去る」と伝えられている。庚申祭(特に初庚申)の日には、猿面を求める参拝客で長い行列ができ、藤崎の住宅街の奥深くまで続く長い行列で、待ち時間が2時間から3時間に及ぶこともある。住宅の玄関に猿面が掛けられているのは、福岡市ではよく見られる。 猿面
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祭典行事
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「イラン建国二千五百年祭典」の記事における「祭典行事」の解説
この祭典は、1971年10月12日に、シャー(皇帝)とシャーバーヌー (Shahbanu, 皇后) が、パサルガダエのキュロス2世の大霊廟 (mausoleum) に参拝することから始まった。続く2日間にわたって、シャー夫妻は、到着する各国からの賓客を歓迎し、しばしばシーラーズ国際空港で直々に出迎えることもした。10月14日、宴会場においてシャーバーヌーの誕生日を祝う大祝祭晩餐会 (a grand gala dinner) が催された。宴会場では、各国の王族や国家元首など60名がひとつの長いテーブルに集まった。正式な乾杯には、1959年のドン・ペリニヨンのロゼが用いられた。 ケータリングはマキシム・ド・パリが行なった。 600名にのぼる招待客たちは、5時間半以上にわたって食事を続けたため、この晩餐は近代以降の歴史において最も長い時間をかけた最も贅沢な公式晩餐会として、ギネス世界記録とされ続けている。この晩の最後には、ヤニス・クセナキスがデザインした音と光のショー (Son et lumière) 「ペルセポリスのポリトープ (Polytope of Persepolis)」が上演され、その伴奏にはこの祭典のために委嘱された電子音楽作品「ペルセポリス (Persepolis)」が演奏された。翌日には、イラン陸軍から動員された1724名の兵士によって、2500年間のイランの帝国としての歴史から各時代の装束を身に着けた様々な帝国兵士の行進が披露された。その晩には、前日ほどは形式張らない形で、「伝統的なペルシア宴会 (traditional Persian party)」が宴会場で開催され、ペルセポリスでの行事を締めくくった。 最終日、シャーは建国2500年を記念するものとして、テヘランのシャーヤード・タワー(イラン革命後、アーザーディー・タワー (Azadi Tower) と改称)を除幕した。タワーには、ペルシア歴史博物館が開館した。この博物館には、シャーが「人類史上最初の人権憲章」と宣伝していたキュロスの円筒碑文が展示された。この円筒は、祭典行事の公式シンボルとなっており、キュロス2世の墓におけるシャーの最初の演説では、2500年前に、この円筒に記された自由の主張が賞賛された。一連の祭典行事の最後は、シャーが父である先王レザー・シャー・パフラヴィーの廟に参拝することで締めくくられた。 この祭典は、その時点で現存していたもっとも古い君主制に基づく2人の君主であった、シャーと、エチオピアのハイレ・セラシエ1世を同席させることとなった。しかし、1970年代の末までにこの2つの君主制はいずれも潰えることとなった。オーソン・ウェルズは、この祭典について、「これは今年一番のパーティーなどというものではなく、25世紀の間で最高のお祝いだった (This was no party of the year, it was the celebration of 25 centuries!)」と述べた。 イラン建国を祝う祝祭行事は、その後も1977年まで、毎年続けられた。
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