矢倉沢往還の発展と継立村の指定とは? わかりやすく解説

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矢倉沢往還の発展と継立村の指定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 13:50 UTC 版)

溝口 (川崎市)」の記事における「矢倉沢往還の発展と継立村の指定」の解説

足柄道矢倉沢往還として整備され東海道脇往還として利用されるようになった1669年寛文9年)には幕府により、二子村と共に宿駅継立)に指定された。公儀旅行者のための伝馬人足常備義務付けられ宿泊施設兼ねるために光明寺を南二子から現在の大山街道沿いに移転同時に七軒百姓」も移住させて往還道の集落形成させた。 1681年延宝9年)には、久地諏訪河原久末末長の4二子村助郷指定され1716年享保元年)には北見方上作延下作延の3が、溝口村助郷指定された。月の上二十日間を溝口村が、下の十日間を二子村が、代官旗本のための人馬負担した江戸時代中期以降は、雨降山(あふりやま)とも呼ばれて信仰集めた大山へ参詣大山詣)が特に隆盛となり、宝暦年間1751年から64年)で年間20万人参詣した多く参詣が行交うようになった矢倉沢往還は「大山街道」と呼ばれるようになった。この大山街道渡船二子の渡し」で多摩川越えていたため、溝口隣接する二子は共に宿場町として栄えることとなる。1770年明和7年)頃には灰吹屋が薬屋始め街道唯一の薬屋として繁盛したまた、江戸時代後期には、厚木方面からの荷物大山街道経由溝口まで運ばれた。主な物資駿河真綿伊豆椎茸乾魚秦野煙草などが流通し百万都市江戸へ発送されるのみならず継立村内にも売りさばかれ小規模な金融を行う質屋交通のための人足労働者が集まるようになり、商業および物流中継地点として発展しいち早く貨幣経済浸透した1827年文政10年)には寄場組合親村となり、この地域の各との連絡中心地となった

※この「矢倉沢往還の発展と継立村の指定」の解説は、「溝口 (川崎市)」の解説の一部です。
「矢倉沢往還の発展と継立村の指定」を含む「溝口 (川崎市)」の記事については、「溝口 (川崎市)」の概要を参照ください。

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