矢倉沢往還の発展と継立村の指定
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「溝口 (川崎市)」の記事における「矢倉沢往還の発展と継立村の指定」の解説
足柄道は矢倉沢往還として整備され、東海道の脇往還として利用されるようになった。1669年(寛文9年)には幕府により、二子村と共に宿駅(継立村)に指定された。公儀の旅行者のための伝馬人足の常備が義務付けられ、宿泊施設を兼ねるために光明寺を南二子から現在の大山街道沿いに移転、同時に「七軒百姓」も移住させて往還道の集落を形成させた。 1681年(延宝9年)には、久地、諏訪河原、久末、末長の4村が二子村の助郷に指定され、1716年(享保元年)には北見方、上作延、下作延の3村が、溝口村の助郷に指定された。月の上の二十日間を溝口村が、下の十日間を二子村が、代官や旗本のための人馬を負担した。 江戸時代中期以降は、雨降山(あふりやま)とも呼ばれて信仰を集めた大山への参詣(大山詣)が特に隆盛となり、宝暦年間(1751年から64年)で年間20万人が参詣した。多くの参詣者が行き交うようになった矢倉沢往還は「大山街道」と呼ばれるようになった。この大山街道は渡船「二子の渡し」で多摩川を越えていたため、溝口と隣接する二子は共に宿場町として栄えることとなる。1770年(明和7年)頃には灰吹屋が薬屋を始め、街道唯一の薬屋として繁盛した。 また、江戸時代後期には、厚木方面からの荷物が大山街道経由で溝口まで運ばれた。主な物資は駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野の煙草などが流通し、百万都市の江戸へと発送されるのみならず、継立村内にも売りさばかれ、小規模な金融を行う質屋や交通のための人足労働者が集まるようになり、商業および物流の中継地点として発展し、いち早く貨幣経済が浸透した。 1827年(文政10年)には寄場組合村の親村となり、この地域の各村との連絡の中心地となった。
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