盗んだ本の行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:43 UTC 版)
足利学校の『古文尚書』等は、事件後に学校側の人物により奪還された。奪還された中には、「島田翰珍蔵」と墨書されたものもあった。窃盗の動機は定かでないが、一説には、父・篁村が「我が家の蔵書は天下一で、これに勝るのは足利学校くらいだろう」という旨を翰に語っていたためとされる。 金沢文庫の『文選集註』は、中国に流れた後、日本に戻ってきている。長澤 1999aによれば、東洋文庫現蔵の5巻分7軸と、金沢文庫現蔵の12巻分19軸が確認されており、この他にも個人蔵が存在する可能性がある。保存状態は、金沢文庫蔵の方が劣悪なのに対し、東洋文庫蔵の方は中国人が貴重本と認識して補修したためか比較的よい。また東洋文庫蔵の方には、書写年代の考証等が書かれた跋文が複数添えられている。一つは羅振玉による1911年のもの、もう一つは楊守敬による同年のもの、もう一つは羅振玉の友人で「潜山先生」と呼ばれる田某による1915年のものである。これら跋文によれば、流通当初は唐代中国の写本と期待されていたが、後に平安時代日本の写本と判定された。その後日本に再輸出され、東洋文庫創設者の岩崎久彌ら日本人の手に渡った、と推定される。 『文選集註』に関しては、大野洒竹が翰から一巻を引き受けたとする説もある。
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