皇民党事件
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皇民党事件(こうみんとうじけん)とは、自由民主党の総裁指名に関し、1987年(昭和62年)に日本皇民党が起こした事件。1992年(平成4年)の東京佐川急便事件に絡み、その公判中に明らかになる。“総理誕生に闇勢力が関わった”として問題になった。
注釈
出典
- ^ 岩瀬『われ、万死に値す』212頁。
- ^ 『新版 日本をダメにした九人の政治家』169頁。
- ^ 岩瀬『われ、万死に値す』213頁。
- ^ “ほめ殺しの記憶(2010年9月7日)”. 毎日新聞 2010年10月3日閲覧。
- 1 皇民党事件とは
- 2 皇民党事件の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
皇民党事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 03:26 UTC 版)
詳細は「皇民党事件」を参照 1987年(昭和62年)、四国の右翼団体である日本皇民党が「日本一金儲けが上手い竹下さんを内閣総理大臣にしましょう」などと街頭宣伝を行い、中曽根康弘の後継者と目されていた竹下登のイメージを下げていた。このとき浜田は皇民党に単身乗り込み「8億積むから、手を引いてくれ」と申し入れたが、拒絶されている。その帰り際に浜田が「おまえらのやっていることは、"ホメ殺し"じゃないか」と捨て台詞を吐いたことから、このネガティブ・キャンペーンの手法が「ほめ殺し」と呼ばれるようになった。
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皇民党事件
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詳細は「皇民党事件」を参照 1987年(昭和62年)、自民党次期総裁(次期総理)最有力候補の竹下登は、高松市に本部を置く右翼団体日本皇民党による執拗なほめ殺し攻撃を受けていた。これは、恩義のある田中角栄を、竹下が裏切ったことが原因であったとされる。竹下はこれに対処するため、腹心の金丸信に相談。金丸は、東京佐川急便の渡辺広康社長(当時)に、暴力団稲川会会長石井隆匡との仲介を依頼。東京都内のホテルで竹下、金丸、渡辺、小沢一郎が善後策を協議。その結果、竹下は田中邸を訪れ謝罪することになった。この訪問は門前払いとなったが、事件は沈静化した。魚住汎英は、この件で稲川聖城(稲川会総裁)に会いに行ったと話している。東京の高級料亭で金丸信が石井に面会し、「私が彼(石井)と会ったのは感謝の気持ちからです。もちろん、よくないとはわかっていましたが、ともかくそうしたのです。」と言ったという。 数週間後の1987年(昭和62年)11月、竹下登は総理に就任。この成功により、渡辺広康は政界に強いコネクションができた事を大いに喜んだ。その後、東京佐川急便は、石井隆匡が経営権を保有していた岩間カントリークラブ(旧平和相互銀行グループ)をはじめ、石井と関係のある会社に対して、次々と融資や巨額の債務保証を行う様になる。その総額は約4,395億円に上り、40の企業(うち稲川会のフロント企業は6社、総額1,000億円)と1個人(石井本人)に及んだ。
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