生活単元学習への反対運動 1951年-1957年
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「数学教育協議会」の記事における「生活単元学習への反対運動 1951年-1957年」の解説
数学者の遠山啓はある日長女が持ってきた算数のテスト成績がひどく悪いのを知って、授業参観したところ当時行われていた生活単元学習に大きな疑問を抱いた。遠山は東京理科大学の数学教育の研究会に出席するようになり、そこで知り合った黒田孝郎と山崎三郎とともに生活単元学習を打ち倒すための新しい会を作ることにした。遠山らは当時著名だった数学者・小倉金之助の後押しを依頼し、1951年(昭和26年)4月16日に第1回の研究会を行った。研究会の場所には遠山の東京工業大学の研究室と香取良範の成蹊中学、椎名善男校長の道和中学校が使われ、月2回の会合が行われた。 1951年の秋に全国組織にするために要綱の作成に取りかかり、「数学教育協議会設立趣旨(草案)」が作られた。その起草委員は小倉金之助、奥野多見男、香取良範、黒田孝郎、遠山啓、中谷太郎、山崎三郎の7名の数学者や教師たちであった。冒頭には「われわれは、日本の独立を達成し、国民の生活を高め豊かにしていくことを念願するものである」と述べられ、「今日の数学教育は破局に瀕している。児童の計算力は2年低下している」として、「その最大の原因は生活単元学習と呼ばれる学習形態にある」と断じている。当時の日本は敗戦後のアメリカ占領下にあり、アメリカによって導入された生活単元学習を批判することは「占領政策批判」と取られる恐れがあったので、文章には苦心したという。 数教協の名がはじめて月刊雑誌に載ったのは『教育』1952年(昭和27年)5月号の数学教育座談会の記事だった。この座談会で国立教育研究所の久保俊一によって、疑う余地のない算数の学力低下が明らかにされ、数教協の主張が裏付けられた。当初の会員は十数名で、徹底的に内部討論が行われたという。生活単元学習に正面切って反対したため激しい批判にさらされた。1952年(昭和27年)8月に機関誌『研究と実践』がガリ版刷り14ページで発行された。この機関誌は1956年1月の129号まで発行された。1953年に第1回の全国大会が法政大学で行われて、要綱草案が可決されて研究会としての形が整った。 1955年(昭和30年)2月から新しい機関誌『数学教室』が発行され、批判から実践へと研究が変化していった。『数学教室』は2020年現在も発行が続いている(節「機関紙」も参照)。
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