爆発的人気と相次ぐ暴動事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:32 UTC 版)
競輪が誕生した1948年(昭和23年)当時、国営競馬(中央競馬の前身)の控除率(俗にいう「寺銭」)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになった。 しかし、その一方で、客が自転車競技の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、1949年(昭和24年)に発生した大阪住之江競輪場での事件を端緒に、しばしば暴動事件 が発生する事態となったことで、新聞を中心としたマスメディアの批判も強くなっていった。とりわけ1950年(昭和25年)に鳴尾・川崎の両競輪場において起こった騒擾事件は激しい非難を浴び、競輪廃止論議が世論を賑わせることになる。特に鳴尾での騒擾事件は大きく尾を引き、競輪は2か月間開催を全面的に自粛せざるを得なくなっただけでなく、吉田茂内閣に至っては競輪廃止を閣議了承したほどであった。だが結局は競輪廃止論議は閣議段階で踏み留まり、通商産業省(当時)の勧告により、当面の開催継続と引き換えに施設の耐火性向上(コンクリート化)工事や選手の資格再検討などが行われた。 1951年(昭和26年)の国会において日本共産党が提出した競輪廃止法案が否決されるに至ったことで、競輪は以後も開催が続けられていくことになる。 「競輪」の言葉を考え出したのは、当時毎日新聞西部本社小倉支局に勤めていた新聞記者の山本鹿雄。競輪が始まった当初は「きょうわ」または「きょうりん」と呼ばれたが、実のところ当時は関係者の間でも必ずしも統一されておらず、読み方の混乱が長く続いた(世間では「きょうりん」が趨勢であった模様)。ただ、この鳴尾事件が発生した時に、世間では競輪を「狂輪」や「恐輪」などと揶揄するようになったことをきっかけに、鳴尾事件後の1951年以降、今の「けいりん」が定着したと言われている。 だが、その後も断続的に暴動事件は発生した。中でも1959年(昭和34年)6月23日、松戸競輪場第5レースの着順判定を巡って「八百長騒動」が発生したことにより、施設破壊などの事態を招いたばかりか、主催者側が騒いだ一部の客に対し、「車代」と称して1人あたり1000円を渡していたことが発覚(松戸事件) した事件をきっかけに、断然人気の白鳥伸雄の競走中止に対する件が発端となった1960年(昭和35年)9月13日における西武園競輪場での事件や、人気の中心となった笹田伸二のトップ引きにかかる1968年(昭和43年)4月11日における川崎競輪場での事件など、鳴尾事件に匹敵するほどの大規模事件も発生した。 平成に入ると大規模な暴動事件はなくなったものの、それでも1993年(平成5年)7月31日には第9回全日本選抜競輪の場外車券を発売していた岸和田競輪場にて、第2レースで9人中8人が失格するという異常事態に端を発した暴動騒ぎが起きたほか、2000年(平成12年)2月11日には立川競輪場にて、当日開催されていた「アシアナカップ」決勝で係員が残り周回を間違えて誤打鐘をした事に対しファンが立て篭もる事件が発生するなどのトラブルは起きている。
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