漢方診療の実際
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昭和16年(1941年)、矢数道明、木村長久、清水藤太郎らとともに、『漢方診療の実際』(南山堂)を刊行する。本書は、現代医学を修めた医師にも理解できるよう、漢方の専門用語はなるべく用いず、各論は当時南山堂から出版されていた『内科診療ノ実際』に準じて病名を中心に書くよう南山堂から要望されていた。敬節らは、1か月ごとに各自の分担原稿を持ち寄り、互いに推敲を重ね3年間かけて出版に至った。今日の日本では「はじめて現代医学の病名による漢方治療の大綱を整理したもの」として評価がされており、また、中国でも受け入れられ翻訳本は9万部以上が出版されている。このように評価されている本書であるが、昭和29年(1954年)に改訂版を刊行した際、『治療学総論』(1928年)、『治療学概論』(1949年)の著者である板倉武から「現代病理学に降参している」と手厳しく批評されたが、敬節は「肯啓にあたった批評(急所をついた批評)」と受け止めたという。板倉は漢方の本質に背くとして本書を批判し、敬節はこの見識を認めながらも、漢方医学の普及のためには病名による漢方治療という便法がどうしても必要だと考えた。板倉武は、東京帝国大学医学部第一内科学教室講師を経て同愛記念病院内科医長などを歴任しているが、東洋医学と西洋医学の融合を理想としていた医師であった。敬節と板倉とは、太平洋戦争末期、板倉が政府から研究費を得て同愛記念病院内に東亜治療研究所(のち東方治療研究所と改称)を設立し所長となった際、漢方部門の所員として敬節を招聘したという関係であった。同研究所は戦災・敗戦の影響から短期間で廃止されてしまった。
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