源八ら一党による報復とは? わかりやすく解説

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源八ら一党による報復

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 02:29 UTC 版)

浄瑠璃坂の仇討」の記事における「源八ら一党による報復」の解説

事件当事者追放してまもなく、追腹一件幕府から咎(とが)められた奥平家は2万石減石されて出羽山形藩9万石への転封となっていた。寛文9年7月3日1669年7月30日)、源八一党手始めに、追放処分受けず奥平家に留まってい隼人実弟奥平主馬允を出羽上之山で待ち伏せし討ち取った源八一党からの襲撃不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭戸田七之助の屋敷へ身を移した寛文12年2月3日1672年3月2日未明源八とその一党42名が隼人潜む戸田屋敷討ち入った源八らは10数人斬るなど終始優勢であったが、隼人の父・半斎討ち果たしたのみで、目的隼人探せなかった。いったん仇討ち断念した討ち入り一党が、屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、隼人手勢率いて追ってきた。源八はとって返して隼人対決し、ついにこれを討ち取った源八一党は、幕府出頭して裁き委ねた文治政治への転換進めていた徳川家綱政権は、この行為をゆるさず、武士の私闘を悪として封じ込める策を採った。ただし、源八殊勝な態度感銘受けた大老井伊直澄による幕閣への影響力大きかったためか、結果としては、死一等減じて伊豆大島への流罪という処分落ち着いた流罪から6年後、天樹院千姫13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免され源八は、こののち彦根藩井伊家召抱えられた。他にも、他家召し抱えられた者がいた。ただし、奥平氏桜田門外の変の後に井伊家から召放になっている

※この「源八ら一党による報復」の解説は、「浄瑠璃坂の仇討」の解説の一部です。
「源八ら一党による報復」を含む「浄瑠璃坂の仇討」の記事については、「浄瑠璃坂の仇討」の概要を参照ください。

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