源八ら一党による報復
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「浄瑠璃坂の仇討」の記事における「源八ら一党による報復」の解説
事件の当事者を追放してまもなく、追腹一件を幕府から咎(とが)められた奥平家は2万石を減石されて出羽山形藩9万石への転封となっていた。寛文9年7月3日(1669年7月30日)、源八ら一党は手始めに、追放処分を受けず奥平家に留まっていた隼人の実弟奥平主馬允を出羽上之山で待ち伏せし、討ち取った。源八一党からの襲撃を不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移した。 寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入った。源八らは10数人を斬るなど終始優勢であったが、隼人の父・半斎を討ち果たしたのみで、目的の隼人を探せなかった。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党が、屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、隼人が手勢を率いて追ってきた。源八はとって返して、隼人と対決し、ついにこれを討ち取った。 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。文治政治への転換を進めていた徳川家綱の政権は、この行為をゆるさず、武士の私闘を悪として封じ込める策を採った。ただし、源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかったためか、結果としては、死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着いた。 流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、こののちは彦根藩井伊家に召抱えられた。他にも、他家へ召し抱えられた者がいた。ただし、奥平氏は桜田門外の変の後に井伊家から召放になっている。
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