垂仁天皇
垂仁天皇も伝承の多い天皇で、皇后狭穂姫とその兄狭穂彦との謀反、皇后狭穂姫が戦いの火中で生んだ誉津別皇子が口がきけなかったという伝承。
また、出雲の野見宿禰の武勇伝(力士の始祖といわれている)や野見宿禰の献策によりそれまで行われていた殉死をやめ、土師部の作った土偶(埴輪の起源)を陵の周囲に廻らしたという。
さらには田道間守(たじまもり)が常世国へ非時の香菓(ときじゅくのかぐのみ)を探しにいって帰ってみると天皇はすでに140歳で没しており、田道間守はこれを嘆き悲しみとうとう死んでしまったという伝承がある。
中国にもこれに似た話があったように思う。
第11代天皇 | |
天皇名 | 垂仁天皇 |
読み方 | すいにんてんのう |
名・諱等 | 活目入彦五十狭茅尊 |
読み方 | いくめいりひこいさちのみこと |
時代区分 | 神代 |
天皇在位 | 前29?年から70?年 |
生年 | 生年不詳 |
没年 | 没年不詳 |
父 | 崇神天皇 |
母 | 御間城姫 |
兄弟 | 豊城入彦命・豊鍬入姫命・渟名城入姫 |
配偶者 | 狭穂姫・日葉酢媛 |
皇子女 | 大足彦忍代別 |
即位宮 | 纒向珠城宮 |
天皇陵 | 菅原伏見東陵 |
所在地 | 奈良県奈良市尼辻西町 |
垂仁天皇
(活目入彦五十狭茅尊 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 05:33 UTC 版)
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月1日)は、日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。先代の崇神天皇、次代の景行天皇と共に纒向遺跡付近に都したと伝えられる天皇の一人であり、考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 直木(1979)p.13
- ^ a b c 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
- ^ 垂仁天皇の治世の初期に天日槍が来朝し、末期に曾孫と玄孫が活躍するのは『日本書紀』の在位年数をそのまま受け取れば問題は無いがかなり不自然である。88年条の末尾や『古事記』応神天皇段が単に「昔」と記すように天日槍の来朝はより古い時代の可能性もある。
- ^ “富士山本宮浅間大社:御由緒”. www.fuji-hongu.or.jp. 富士山本宮浅間大社. 2024年7月17日閲覧。
- ^ 浅間神社, 甲斐国一宮 (2022年11月3日). “神様と歴史”. 甲斐国一宮 浅間神社. 2024年7月17日閲覧。
- ^ 吉村武彦「列島の文明化と律令制国家の形成(稿)」『古代学研究所紀要』第21号(2014)明治大学日本古代学研究所
- 活目入彦五十狭茅尊のページへのリンク