没落と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:54 UTC 版)
晴元や足利義輝ら現職の将軍、管領が不在となった京都には三好長慶と細川氏綱が上洛、長慶が幕府と京都の実権を握った(三好政権)。近江へ逃亡した晴元は天文19年(1550年)に足利義晴が死去してからは義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みたが成功せず中尾城を破棄(中尾城の戦い)。 天文20年(1551年)、丹波衆を率いた元成・政勝が長慶軍に敗れ(相国寺の戦い)、天文21年(1552年)1月に長慶と義輝が和睦して義輝が上洛、氏綱が細川氏当主となり嫡男の聡明丸(後の昭元)が長慶の人質になっても晴元は和睦を認めず出家し、若狭守護の武田信豊を頼り若狭国へ下向する。信豊は細川氏の領国である丹波へ派兵する。 それからは丹波国から度々南下して三好軍を脅かし、天文22年(1553年)3月に義輝と三好長慶が決別、7月に義輝から赦免されると再度義輝と共に長慶と交戦した。 しかし、8月に義輝方の霊山城が三好軍に落とされると、義輝と共に近江国朽木へ逃亡した。 丹波国では香西元成・三好政勝らが波多野元秀と手を結び長慶派の内藤国貞を討ち取ったが、国貞の養子で長慶の部将・松永長頼に反撃されて丹波の殆どを平定され、弘治3年(1557年)頃に元秀が長頼に没落させられ丹波は三好領国となった。播磨国でも元成が明石氏と結んだが、弘治元年(1555年)に明石氏が三好軍に攻撃され降伏、勢力拡大した長慶の前に手も足も出せなくなった。 永禄元年(1558年)、上洛を図り将軍山城で三好軍と交戦するも(北白川の戦い)、六角義賢の仲介で義輝と三好長慶が再び和睦を結ぶと坂本に止まる。 永禄4年(1561年)、隠居の晴元は次男の細川晴之を細川家の当主に見立て、六角・畠山軍と共に近江に反三好の兵を挙げさせる。三好軍に敗退し晴之は戦死、三好長慶と和睦するも、摂津の普門寺城に幽閉された。 永禄6年(1563年)3月1日、普門寺で死去した。享年50。 晴元の死後は昭元が京兆家の家督を相続したが、管領に任命されず、かつての威勢を取り戻せず没落していった。細川氏綱は管領に就任したとされるものの史料的な裏づけは無くほどなく死去、以降は誰も管領に任命されなかった。後に、昭元は織田信長に仕え、子孫は縁者の秋田氏を頼り、三春藩の家老として遇された。
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