没落とそこからの復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/11 07:39 UTC 版)
「レージョ劇場 (トリノ)」の記事における「没落とそこからの復興」の解説
その後約40年間は北イタリアで最高の歌劇場との評判を謳歌していたレージョ劇場だったが、1778年にライヴァル都市ミラノにスカラ座が、1792年にはヴェネツィアにフェニーチェ劇場がそれぞれ開場して、19世紀に入った頃にはその地位ははっきりと低下していた。トリノの街自体はリソルジメントによって統一イタリア王国の首都になった(1861年)が、これも僅か4年でフィレンツェにその座を奪われたため、劇場のテコ入れには至らなかった。 こうした中、1865年に実力派指揮者のカルロ・ペドロッティが音楽監督に就任した。彼はその後15年間にわたって全ての演目の指揮をとり、ヴェルディのオペラの高水準の上演で評価を回復し、またワーグナー作品を積極的に紹介していった。 その後、1895年-98年および1905年-06年にかけてはアルトゥーロ・トスカニーニが音楽監督となり、レージョ劇場はイタリアで最高とまではいえないまでも、トップクラスの歌劇場としての評価は回復した。この時代に同劇場で初演された主なオペラとしてはアルフレード・カタラーニの『ローレライ』(1890年)、ジャコモ・プッチーニの『マノン・レスコー』(1893年)および同『ラ・ボエーム』(1896年)がある。1901年-05年は大改装を行うため閉場したが、再開を飾る作品としてリヒャルト・シュトラウス『サロメ』のイタリア初演を、作曲者自身の指揮によって行っている(1905年)。
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