水力発電の苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 02:38 UTC 版)
大井川に完成した小山発電所は、完成当初から水害に悩まされた。最初の被災は完成3か月後の1912年9月22日のことで、洪水により発電機が泥土に埋没するという被害を受ける。発電不能となったため火力発電所を再起させ供給に当たるが、全需要家の半分以下の給電しかできず需要家からの苦情が相次いだ。10月中旬に復旧するものの、12月19日、再度の洪水で仮設の取水堰が流出したため広範囲にわたって再度停電が生じた。 度重なる洪水被害のため日英水電では旧浜松電灯時代から準備が進められていたガス力発電所の建設を急ぎ、1913年(大正2年)3月、浜松郊外の浜名郡曳馬村野口(現・浜松市中区)に出力200キロワットのガス力発電所を完成させた。引き続き本格的な火力発電所建設に取り組み、1913年9月にはガス力発電所構内に出力1,000キロワットの発電所も完成させている。以後供給は安定するようになり、気賀電気の統合など事業拡大も可能となった。 浜松近郊では水力地点の確保ができなかったため、日英水電による小山発電所以降の水力開発は西に離れた愛知県中部を流れる矢作川水系にて展開された。日英水電はまず1913年5月、東加茂郡盛岡村(現・豊田市)に位置する名古屋電灯巴川発電所(矢作川水系巴川に立地)の全出力750キロワットを満2年間購入するという受電契約を締結する。ただちに受電工事に取り掛かり、年末までに巴川発電所への昇圧用変圧器や浜松とを結ぶ送電線を完成させて翌1914年1月より受電を開始した。次いで同年4月には180万円の増資を決議(資本金を300万円となる)し、5月に名古屋電灯巴川発電所の上流側における自社発電所建設を決定する。この自社の巴川発電所は出力1,500キロワットで、1916年(大正5年)2月に完成している。 巴川発電所完成を受けて日英水電では不要となった小規模発電所を廃止し、自社発電所を水力2か所・火力1か所の体制に整理した。また1916年10月には余剰電力を活用した炭化カルシウム(カーバイド)製造にも乗り出す。カーバイド製造は第一次世界大戦下では利益率が高く会社経営に貢献する兼業であった。ところがその後、大戦景気の影響を受けた織物工業(遠州織物)や製材業の活況、さらには石炭・石油価格高騰に伴う電化促進によって電力需要が増加したことから、日英水電は1918年(大正7年)に入ると供給余力を喪失して新規需要に応じられない状況に陥った。そのため浜松地方は静岡県下で最悪の電力飢饉が生じ、電動力の使用権が1馬力600円前後で転売されたという。1919年6月末時点での供給成績は電灯8万8798灯、販売電力昼3,892キロワット・夜2,804キロワットであった。 1920年(大正9年)1月、巴川下流に出力1,119キロワットの白瀬発電所が運転を開始した。3番目の水力発電所となる白瀬発電所の完成により、日英水電の電力不足はようやく緩和された。
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