民族間の緊張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/03 07:39 UTC 版)
東部の民族間の緊張は、数世紀にわたって続いていた(特に、土着の農耕民族とルワンダから度々移住する半遊牧のツチとの間のものが知られている)。加えて、ツチの一部は東部の原住民でもあり、コンゴ自由国設立以前の1880年代には既に移住していたが、さらにベルギーの植民地となった1908年以降、労働者として強制移住の対象ともなっていた。これに加えて、1959年に万聖節の騒乱(英語版)(ルワンダ革命)によってフツがルワンダで優勢となって以降に新たに流入していた。コンゴ共和国として独立を果たす1960年までに流入したツチは、バニャムレンゲとされ市民権を与えられた。独立後の流入者はバニャルワンダ(英語版)として知られたが、ザイールにおいて両者はしばしば区別されず、バニャルワンダと同様にバニャムレンゲもまた外国人として考えられていた。 1965年のモブツ政権樹立後、少数民族であるバニャムレンゲを優遇することでより多数派の民族による反政府活動を抑え、東部支配の礎とすることをもくろんだ。これは民族間の緊張を悪化させるものであり、様々な機会にそれは露呈していた。1963年から1966年にかけて、北キヴ州でフンデ語(英語版)及びナンデ語を使用する複数の民族がルワンダから流入したフツ・ツチの双方と戦ったルワンダ人戦争(英語: Kanyarwandan war)でいくつかの虐殺が発生した。 1981年には市民権の制限が行われ、バニャムレンゲ及びバニャルワンダの市民権と全ての参政権が抹消された。
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