コンゴ自由国とは? わかりやすく解説

コンゴ自由国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 15:10 UTC 版)

コンゴ自由国(コンゴじゆうこく、État indépendant du CongoKongo-Vrijstaat)は、かつてアフリカザイール川流域に存在した国である。国と称しているが、実態はベルギー国王レオポルド2世の私領地であった。ベルギーの植民地時代を経て、のちにコンゴ共和国(後のコンゴ民主共和国)として独立を果たした。


  1. ^ マーク・トウェイン『レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護』p.40
  2. ^ ベルギーで元国王像が撤去される 植民地時代の圧政象徴 米黒人暴行死受け”. 毎日新聞 (2020年6月10日). 2020年6月10日閲覧。


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コンゴ自由国

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公安軍 (コンゴ)」の記事における「コンゴ自由国」の解説

コンゴ兵は多民族混成であり、上コンゴ戦士出身者多かったその他にザンジバル西アフリカから連れてこられた者たちもいた。公安軍任務は「コンゴ自由国を守りアラブ人奴隷交易者を倒すことである」と宣伝されたが、実際にヘンリー・モートン・スタンリー探検自体ティップ・ティプアラブ系奴隷交易者の力を借りたものであり、レオポルドティップから解放名目奴隷購入し実際に公安軍4年働かせるさもなくば出身まで誘拐し代わりの子供を連れてこさせた。カトリック教会奴隷制に近い形で兵士養成に関わった。公安軍実際主要任務コンゴ住民ファンボ呼ばれたカバ革紐つくられた鞭を振るってゴム生産象牙狩り労働強要することであった全てのコンゴ人50から100の鞭を受け、20下回ることはなかったといわれ、死者出た公安軍は夫を働かせるために女性人質にし、時折暴行した多くに火がかけられ多く虐待の内で有名なのは弾薬費用の証明として死体の手使われたことだった。1892年から1894年には上コンゴでフランシス・ダニス(Francis Dhanis)の部隊により本来の任務であるアラブスワヒリ奴隷交易者との戦闘行われた1895年にはルルアブルクテテラ族の蜂起鎮圧され1897年にはルイ・ナポレオン・シャルタン(fr:Louis Napoléon Chaltin)の部隊ラド飛地Lado Enclave)を占領した1897年から1898年にはウヴィラ、1900年にはシンカカザ砦でテテラ族の蜂起鎮圧された。エドモンド・モレル告発を受け国際的非難浴びると、コンゴ自由国はベルギー領コンゴ改められた。

※この「コンゴ自由国」の解説は、「公安軍 (コンゴ)」の解説の一部です。
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