松岡外相の反対
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4月22日に帰国した松岡外相は、日米諒解案がスタインハート工作の返事ではなく、自分のまったく関知しないルートの話であったことを知り、不機嫌になった。その夜の連絡懇談会では、2週間か1、2か月ほど考えさせてほしいと述べ、諒解案を取り合おうとはしなかった。『近衛手記』によると、松岡は、米国が第一次世界大戦中に石井・ランシング協定を結んで後顧の憂いを除いておきながら、戦後にこれを破棄した先例を挙げて、本提案は米国の悪意七分善意三分と解すると論じたという。この松岡の対米認識について、松岡が恐れたのは第一次大戦の再現であり、米国が参戦して独伊が敗北すれば、たとえ日米妥協が成立していても米国に手のひらを返される可能性があったとの指摘がある。 その後、松岡は日米諒解案を「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」(『機密戦争日誌』(5月3日付))な内容へと大幅に修正し、5月3日の連絡懇談会に提示した。 また、松岡は連絡懇談会で次の三原則を提議した。 支那事変への貢献 三国同盟に抵触しないこと 国際信義を破らない 三原則は、アメリカが蔣介石に圧力をかけて日中戦争解決に貢献すること、アメリカが三国同盟を承認すること、ドイツへの信義と協調を意味するため、これはアメリカの方針―中国からの日本軍撤兵、三国同盟の骨抜き、欧州戦争における英国援助と、真っ向から対立するものであった。松岡の狙いは、さらに強気に出てアメリカの欧州戦争参戦を阻止することにあり、「独が起った場合には同盟条約によれば日本も当然起つのを正論なりと思う。しかし外交からいえばそうも行かぬ。米を参戦せしめず、また米をして支那から手を引かせる、というのが今度自分がやろうとする考えである」(5月8日連絡懇談会)とした。 同日、松岡は、野村大使にハル国務長官宛のオーラルステートメント(口頭文書)を打電しているが、その内容は松岡の強気の交渉姿勢を示すものであった。 ドイツ・イタリアは会談によって和平しない ソ連と枢軸国の関係は良好 米国の参戦は戦争を長期化する 日本は三国同盟にもとづく 5月7日、野村はハルと会談し、松岡のオーラルステートメントを読み上げたが、多くの間違いがあると断りを入れるほどであった(野村はハルの同意を得てオーラルステートメントの手交を取りやめている)。ハルは、ヒトラーの制覇が七つの海に及ぶことを忍ぶことはできない、米国の権益擁護のために10年でも20年でも抵抗する決心であると野村に語った。また、野村は松岡の指示により日米中立条約を提議したが、ハルは「それは4月9日の文書に含まれた提案とは全然異なった事柄である」と一蹴した。 なお、野村によれば、ハルは日米交渉の開始について力を込めて督促したとのことである。
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